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カラダと繋がるということ


ピラティスを学びに8月21日から来ていた生徒さんが

明日で最後のレッスンを迎える。

私の今年の夏の始まりは子宮のクラスを茅ヶ崎で行い、愛にたくさん触れて

今年の夏の終わりは、ピラティスをサンディエゴで行い、ここでもまた愛をカラダからたくさん感じたクラスで終わった。

これまで、いろんな生徒さんが7日から14日間、私のところに毎日ピラティスのレッスンを通いに来た。

そんなリトリートなのか強化合宿なのか、

それを始めて今回で4回目。

私が声をかけたわけではなく、『行きまーす』と言って

生徒さんが自分で時間を作り、ホテルを手配し、飛行機に乗って来てくれる。

そして、毎日自分のカラダと真摯に向き合う姿を私に見せてくれる。

昨日、9回目のレッスンで

ピラティスの器械に乗って、一つのエクササイズをしている最中に

生徒さんが涙をポロポロこぼし始めた。

目を閉じてカラダを感じている中で流す涙は、静かで美しかった。

こういう事って、レッスンを教えていてよくある光景だ。

自分のカラダが繋がった瞬間に、『あ。。。。』という感じで

涙が出て来る。

自分のカラダに感動をしているというか、

自分のカラダに愛おしさを覚えるというか。

終わった後に、自分のカラダの中にいることの高揚感を覚える。

彼女が言った。

『初めてなのか、それとも怪我をする前はこうだったのか。

 こんな風に腰が自分のカラダと繋がりを感じたら涙が自然と出て来たんです』

ほとんど、私たちはカラダをバラバラに使っている。

カラダが繋がっているとパワフルなんだけど、

繋がらせるためには少しのトレーニングが必要だ。

そのトレーニングって、できれば避けたい内容。

でも、そのトレーニングをしたら、カラダと繋がれる。

セッションの中で、腹部の一番深いところから、声が出ることがある。

その時に、そこそこ!と私は思う。

決して難しいことをしているわけではない。

でも、一人だったらたどり着けないところがある。

それが私の仕事だと思っている。

しかも、

そこに行きたいと急ぐと、たどり着けない。

どうやったら行けるんだろうと、「頭」で考えてもたどり着けない。

1日ずつカラダを組み立てながら、少しずつカラダに伝えていく。

地道に、やるしかないっていうやつだ。

10日たった今日、彼女のカラダはエレガントに動いた。

初日には見えなかった、カラダの動かし方をし始めた。

本人も

『今まで習ったことがないカラダの使い方で、

 どうしてできたのかわからないんですけど、でも繋がりを感じます』

と言っていた。

そして、表情が変わって来た。

カラダの使い方が変わると、

その人の精神が変わる。

カラダの使い方が繋がると

その人の目の奥の輝きが変わる。

カラダを使って、アスリート並みになると目の奥がキツくなる人が多い。

でも、私のセッションを終わった後の私の生徒さんの目の奥は、

柔らかく優しく強くなる。

もしも、目がキツくなるのであれば、

きっと深くカラダが繋がることができていないのかもしれないと私は判断する。

繋がるということは、人間の本質である『純粋な愛』に戻るということだから。

『ジョセフ・ピラティスが大切にしていたのは、エレガントさなんだよ。』

そう私の師匠が言ったのを聞いた。

私は、こうやって日本からまとめた時間を作って来る生徒さんを見るたびに

そのエレガントさに近づいてく彼女たちを見て

彼の言葉の真意を知る。

私のレッスンを怖いという生徒さんがいる。

でも、それは自分の純粋な愛に繋がるのが怖いということだと、私は理解する。

明日、最後のレッスン。

そして、私の夏が終わる。

今日でもう十分に美しい目をしていた彼女だから、

明日は私は彼女のことを眩しく見送ることだろう。

ちょっとサラダ記念日的な感じで書いて見た今回のブログ。

いかがざんしょ。

あ、その生徒さんからの言葉は以下:

『本当に10代の頃のたくさんの感情をブレイクスルーしたり、リリースしました。

 美しかったのか〜自分ではその余裕はなかったです。

 でも自分の身体が愛おしく思えて、とっても幸せだった感覚があります』

ほらね。

自分で意識していない美しさって、

自分が頑張って美しく見せようとするときではなく

「自分が愛おしく幸せだ」という時。

モノクロから虹色へ

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