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性教育をどう教えるかについて

性教育を教えると聞くといやらしい気がする。

なんだかとってもタブーなことを話すような気がする。



(*私はあなたの中心、あなたのエネルギーのボルテックス、そして私はあなたの内側にすでに存在しているの)




性がなければ、わたしたちは存在出来ないのに

それを口にするのはとても、はしたなくみっともないことの気がする。



昔はそうじゃなかったけど、現代人は洗脳されているのだという人もいれば、

性をオープンにすることをしていこう!と活動をする人も

色んな物事の取り方があるのだと思う。


私が色んなワークショップを受けて思ったのは、


性というものは、


どれだけ私たちの心を躍らさせ、ウキウキさせ、楽しみで仕方がないと同じぐらいの爆発力で

人の心を壊すものだということを感じる。


あるポルノにはまっている男性と対談をした時


「僕は、10歳の時にクラスの女の子がみんなにやられているから、

 お前もアイツとやれって言われたんだ。

 そして、やってみた後に、その女の子が僕のおちんちんと見て、なにこれって言って笑ったんだ。

 それが原因で僕はポルノに走った。原因はわかっているのに、抜け出せないんだ。


 そして目の前の女の子と繋がることは難しいんだ。」


と教えてくれた。


そして、こういう系の話を色んな男性から聞いた。


心も体も絆される、つまり、身も心も自由を束縛されてしまうという「性」


だからこそ、取扱注意という形で人は、性について話すときに眉をひそめ、公にすることを安心に思わないのかもしれないと、私は感じている。


性に対して歪んだ考え、歪んだ経験、歪んだ知識、歪んだ感覚



それを持つ人の、他者への破壊力は計り知れない。



だからこそ、なるべく抑制させるのかもしれない。


そんなことを、英語で、コントロールをすると表現したりする。



全くの余談だが、

ピラティスという名のエクササイズは、かつてはコントロロジーと呼ばれた。


ピラティスというおじさんが、体をコントロールすることが大事だと考えたから。


でも、彼のコントロールは、抑制という意味では使っていないのだと感じる。


抑制ではなく、

自由に選択が出来るというパワフルさをコントロールと呼ぶ。


おそらくだが、

体をそのまま放っておくと、

きっとそのポルノ中毒の彼のように、あまりにも繊細な性を容易に傷付かせてしまうことがある。


みんなからやられた女の子の心境もどうだったのだろうかと

母親として思いを馳せるとやりきれないが、

性というものをタブーにして、コントロール(抑制)していたつもりが、

生身の人間を愛せないという一人の人間を生み出している。


その一方で、体をちゃんとケアして、大切に扱うということをしたら

わたしたちは、もっと性を愛が溢れる素晴らしいっ形で爆発力を使えるのではないだろうか?





つまり、性によって傷つく私たちなのではなく、

性というものを楽しめるわたしたちは自由に性を選択できるのだ。



性を楽しむってなに???


って思うかもしれない。


それは、失敗や成功を繰り返しながら、相手が喜ぶことが出来る素晴らしい感性を持っている私、

そして、人が自分を喜ばせてくれるほど、価値のある私という体験を積むことである。



性行為はそれに過ぎないのではないか。


ただただ、相手が喜ぶことをしてあげて、自分が喜ぶことをしてもらい受け取る。


しかも、それが頭での計算から外れて、心と体で感じる感性だけで。


それ以外の何者でもない。


っていうか、それでしかない。


ご飯を食べるのも、食べ物との性交渉だと思う。


心と体で感じる「美味しい」「不味い」という感性。



では、私たちは、この

『失敗や成功を繰り返しながら、相手が喜ぶことが出来る素晴らしい私であり、相手が自分を喜ばせることを素直に受け取れる素晴らしい感性を持つ私という体験を積むこと』


それをどれぐらいやってきたか?

それがどれぐらいできるか?


そして、今、私は母親としてこう思う。

「それをどれぐらい子供にやらせているだろうか。」



それを、、、というのは


喜ばせることも、受け取ることも両方である。



呼吸と一緒でどちらかが欠けると、どちらのクオリティも乏しくなる。


性教育は、この喜びを与えられる素晴らしい存在であり、

喜びをもらえる素晴らしい存在である


この両方を学ぶことだと思う。


私の持論でしかないが、この世の全ては性交渉なのだと思う。


相手が良かれと思ってやったことが自分にとって気持ち良くなければ

ちゃんとそれを伝えるし、もしも、伝えられる立場であれば、聞いてあげること。


でも、この世の中に、「ノー」と言われて、気落ちする人がどれぐらいいることか?


もしも、誰かに普段の生活で「ノー」と言われたら、こう思えばいい。


「あ、私は、今、目の前の人に、ロウソクのロウを垂らそうと思ったら、嫌だと言われたと同じことなんだな」と。


別に自分を否定されたわけじゃない。

ロウソクのロウが嫌だと否定されたにすぎない。


でも、現代社会で、ロウソクのロウを自分と勘違いして「私の人間性を否定された」と嘆くから

おかしなことになり正しさを主張し愛が滞るのだと思う。


人からノーと言われることは大したことじゃない。


でも、もしも、育つ過程で母親に失敗をすることを許されず、応援されず、

自分が良かれと思ってしたことを否定され、なにやってんのと罵られるだけであれば

きっと、あなたはノーと言われたら傷つく人間に育っているだろう。


だって、あなたが良かれと思ってやったその幼い心を否定され続けたら

あなたはどう人を喜ばすかわからない人間になってパニックになっただろうから。


だから性教育は、

喜ぶこと、応援すること、受け取ること、認めること、交渉することを

普段の生活でやるだけなのだと思う。


そんな内容の今回のYouTubeです。

ブログで文章にして書くとなんか重いですけど、編集者のさとこちゃんのおかげで

とってもポップに仕上がっています。


見てみてくださいませ。


役に立ったり、面白いなと感じましたら高評価やチャンネル登録お願いします♡




モノクロから虹色へ






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