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欠点を直す前に

自分の欠点を直したら、人に愛されるという幻想がある。



むかーしむかし、ある啓発系セミナーに3日間行ったことがあった。


そのセミナーは、紹介制なので、紹介された方のみが来るというもの。

当時の私は、筋肉反射テストは学んでいたが、まだインテグレイティッド・ヒーリングは学んでいなかった気がする。


啓発セミナーはとても人の心に衝撃を与えるものだった。


例えば、その場にいるグループ全員の顔を見て、「瞬時に嫌いな人の顔を指差しましょう」というものがあった。


そして、指を刺された人は、どうして自分が指を指されることになったのかを考える必要がある。


同じく瞬時にこの人いいなって思う人を差しましょうというのもあった。

その時は、指を差した人たちが「どうしてこの人がいいなと思ったかを考えましょう」と言っていた。


その中の参加者の1人の男性が私と同じグループだった。

彼は終始イライラしていた。


グループでのシェアリングの時間が終わって、個別に話していた休憩時間のこと。

彼が私に言った。


「あそこにいる人、見えます?」


私がそっちを向くと、1人のニコニコした男性がスタッフとして働いていた。


「あれ、俺の兄貴。このセミナーに来て、あんな風になってしまったんです」


と教えてくれた。


「あんな風って?」


「気持ち悪いでしょ。あんなニコニコして。作り笑いですよ。人から好かれるっていうエクササイズで好かれない方で指をさされたみたいで。」



「えええー?」


「あんなの俺の兄貴じゃないんすよ。

 ただの誰かの真似じゃないっすか。

 このセミナーがおかしいって事をちゃんと理解するために、俺はこれを受けに来たんで、

 講師の人たちとかが言ってることも分かるけど、最終的に兄貴はあんな風になったんで

 俺は、このセミナーを良いとは思っていません。」



最終日。

紹介者の人に会うと言う内容。

私の隣にいた彼の前にはお兄さんが立っていた。


彼は兄を不機嫌そうに見つめ、「やっぱり、あんた気持ちわりーよ。このセミナーの人がいう良い人をやってるだけじゃん。お前みたいになりたくない。」と言ってた。

そう言われた彼の兄は、ニコニコ顔を引き攣りながら笑っていた。


あの光景は、今でもふと思い出すことがある。


私のことではないのに、ふと思い出すのだ。


あの後、彼らはどうなったんだろう?



15~16年経った今の私がもう一度行くか?と聞かれたら、どうだろう?


きっと、そこには、良いフィードバックもあっただろう。


人間社会で生きていく上で、他人とどう生きていくかがとても大事であれば、

そういう客観的視野を自分に取り入れるのはプラスに働く場合もあるのかもしれない。



でも、今の私は、自分の欠点とは「何かできないこと」とか「人からよく思われないこと」なのではないと思っている。


欠点とは、自分の成長を阻むものを言うと思う。




その成長とは、もっと稼げとかもっと良い人になれという、向上心を言うのではない。


本当に自分が自分らしく生きていくことを阻むものを言う。


それが欠点じゃないか?と。


わたしは自分の成長を阻んでいるのだろうか?


もしも成長を阻んでいるものがあるとしたら、それは自分が持っているのが不快な感情ではないかと思う。


嫌な感情からは目を背けたくなるから。


嫌な感情が出てきた時、そこを見ることよりも


察してもらうこと

こうすべきでしょと相手を攻撃すること

自分の機嫌だけ投げつけること

急に爆発してして自己嫌悪に陥ること

自分を責めて、その場に居合わせた相手を責めて、1人泣くこと


などをしてその嫌な感情を対処する。



もしも、セミナーの会場で、あの彼がみんなから嫌いな顔だと指で指されたら

私は、その指を指された彼に変われと言うよりも、

指を差した人に、「あなたは彼を通じて、なんの嫌な感情を見ているのですか?」と聞きたいと思う。


指を指された彼ではなく、指を差した人ひとりずつに聞いて回るだろう。


指を差した人は、大体自分のことを正しいと思っている。

だから、聞かれた時に困るだろう。


自分の正しさに執着している人ほど困るはずだ。


変なのは私じゃない、アイツだ!と。


そして、一生懸命にその人の悪いと思うところを見つけては言うだろう。


その悪いところは、彼のものではなく、

あなた本人の頭が作り出したものなのに。



そこを見る勇気があるだろうか?


もし勇気があれば


指を差した人は、その誰かに対して抱いた嫌悪感というのは自分の心の裏にあった渦巻く感情の結果だった!と知ることになるだろう。



その瞬間、自分が囚われていた概念に気づく。


ああそうかあ、と、自分を理解して、取り憑かれて「あいつ嫌じゃん」と思って指差していた自分を手放して、

最終的にそれを気づかせてくれた相手に感謝をするだろう。


もしそれが出来ていたら

あの男性のお兄さんは、ニコニコしてみんなのお手本になるような人になろうとする必要もなく

彼は彼らしく、人はいろんな独自の感情を持って存在するんだと知ることになるんだろう。

そして、周りからのいろんな気持ちを知って、自分を振り返るかもしれない。


その時に出てくる笑みが、きっと本来の彼の笑みだとしたら、あの弟さんは

どんな気持ちで兄を見るのだろうか?




でも、これは、とっても難しい。誰も気づかせてあげることが出来ないから。


自分が嫌な思いになったのは、あいつのあのせいだ。


お前の

そこに、ガッカリした。

そこに、腹立った。

そこに、ムカついた。

そこに、責めたくなった。

そこに、イラついた。


そうやって、正義を持って振りかざして、相手を傷つけることをしてばかりいる。


愛されたいのに、愛を持って繋がりたいのに、正義が邪魔をする。


正義を持って、自分を正しいという地位にいることに一生懸命になる。



自分の感情を見ることは、とても勇気がいることだ。

そこに責任を伴うことは、とても苦しいことのように見える。


どうして私がこんな気持ちになったのか。

私の何が私をこんな気持ちにさせているのか。


なぜ私がこの感情を選んだのか。


それは、自分の欠点を直したら、人に愛されるという幻想ではなく

自分の感情を自分のものとして理解したら、人と愛し合えるという現実が待っている。


なぜなら目の前にいる人の良いところを見ようとするはずだから。




それを私も今も学んでいる。


次回はそんなお話です。


モノクロから虹色へ


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