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飼い慣らされる


多くの女性が子宮に何かしらの問題を抱えてやってくる。


生理不順、子宮筋腫、子宮内膜症、月経痛など

本当に多岐にわたる子宮の訴えがある。


それぞれいろんなバックグラウンドがあるけど

一つずっと気になっていたことがあった。


それが私のところに来る白人の女性のほとんどが『バービー人形』に取り憑かれているんじゃないかという感覚だった。というか、バービーという言葉をいろんな人が口にしていた。


バービーのようなスタイルで

バービーのような金髪で

バービーのような唇に

バービーのような可憐さ


それに取り憑かれているのかなあって思っていた。


とても礼儀正しくて、とてもおしとやかで

人当たりが良くて、その上、権力に対して服従もしくは加担しているのが当たり前で

その権力はほぼ男性が持つという感じのバービー


その場の雰囲気を壊すよりも、黙っているという光景を目にしたときには

自由の国、アメリカでもこういう人、多いんだなって思ったこともあった。


それは、子宮のセッションからも感じたし

私がアメリカ人に混じって受けてきた様々なジャンルのワークショップでも感じた。



日本では、リカちゃん人形だろうか?


もはやバービーとリカちゃん人形が同じなのかどうかもわからない。


私の家はおもちゃが一切なかったので

近所のお友達の家から最新の情報を得てくることが私にとっては楽しみだった。


お友達がリカちゃんとお話ができると、電話の番号を押して

「こんにちは、私はリカちゃんよ」と甲高い声が聞こえたときに

おおおお〜!リカちゃんっているんだ!って思ったのを覚えている。


奇しくも同じ電話機で数年後

「面白いのが聞こえるよ」と

そのお友達が電話をした相手が当時流行ったテレクラだった。


向こうから甲高いおばさんの声が聞こえたとき、

小学生4年の私は、リカちゃんってテレクラのおばさんになったの?と思ったほどだった。

 

こんな世間の情勢に疎い私だったので

ピンクレディも又聞きで歌を覚えている程度だし

私はそんなに世間の波に飲まれていないと思っていた。


だから、米国の女性たちが一様にバービー人形に取り憑かれている様子が

とても興味深かった。



そんな私は、最近、私自身も取り憑かれていることに気づいた出来事があった。


この12月はクリスマスシーズンで、私たちは恒例のゲイマンコーラスショーに行ってきた。


その名の通り

コーラス隊の全員がゲイのみんなで作られているショーである。


とても楽しくて、初めて行ったときは涙したものだった。



さて、今年もチケットをアンドリューが取ってくれて

お友達が子供を見てくれている中、私たちは会場に向かった。


席に案内をされるとオーケストラ席のど真ん中のすごくいい席だった。


アンドリューやるじゃん!!と私は興奮した。

そしてショーが始まる5分前になると会場がどんどんと人で埋め尽くされていった。

コロナはどこへ?というほどギュウギュウの会場で

私は今か、今かと始まりを待った。


すると、アンドリューの様子がおかしい。

呼吸が荒くなっている。

そして彼は『ダメだ、閉所恐怖症が始まってきた』と言って

駆け出すように席を離れようとした。


恐怖症のプロトコルは頭に入っている。


「セッションをここでしようか?」と聞くと

そんな時間はないとばかりに人をかき分けで外へと出て行った。


私は、どうしようかと思ったが、彼の安否を確認しようと私も席を離れた。


席を離れて空間が広いところに行くとアンドリューは落ち着きを取り戻したようだった。

「サイコロジカルなのはわかっているんだけど、両隣に大きい人がいて、いずみの前にも大きい人がいて、、、、」と言った。



きっと彼にとっては、両隣をダンプカーに挟まれた軽自動車の気分だったのだろう。


「大丈夫?」と聞くと


後ろの席が空いているからここに座ろうと彼が言った。


そこは1番後ろの角の席だった。

声も届かない。人物も小さい。

先ほどの席とは比べ物にならないぐらい、チンケな席だった。


私は、どうしようかと迷っているうちに暗くなりショーがスタートした。

アンドリューが手を握ってくる。


私は怒りがフツフツと湧いてきた。


どうしてもあの席で見た!

どうしてもあの席に行きたい!


その思いがどんどんと身体中を駆け巡る。


でも頭では

『夫婦できたんだから、どこにいても夫婦でいるのがいい妻でしょ』


『私が一人で楽しむのは、自分勝手でしょ』


『私が、あの席に戻って楽しみたいと言ったら、アンドリューはもしかしたら俺のことを大事に思っていないというかもしれない』


『私が我慢すれば、ただだか2時間のショーだし』


そんな風にどんどんと自分の感情を理性で、なだめようとする私がいた。


それに伴い

顔がどんどん熱くなる。

顔がどんどん痒くなる。


手を繋ぐアンドリューのその行為がうざったく

にこやかに歌う舞台にいるゲイの男性にムカついた。


ゆっくりと息をしながら

この怒りを感じながら

さて、この怒りの出所はどこだ?と自分に聞いた。


アンドリューがわざと私をここの席に連れてきたのではないことはわかっている。

彼だって、できるならあそこの席で見たかったことだろう。


でも、この怒りは何?


そう自分に聞くと、ふと母親と歌舞伎を観に行ったことを思い出した。


母親はとても気分屋だ。

歌舞伎でご飯を食べるより、お腹が空いたので先にどこかで食べようと話した。


そして私たちが銀座を降りて歩きながらご飯屋さんを探した。


「ここはどう?」

「あそこは?」


そう聞くたびに彼女は「そういう気分じゃない」と言った。


だから、私はお腹をぺこぺこにしながら歩きながら

母親が喜ぶ場所を探した。


最終的に歌舞伎の時間が近づき、近くの汚いうどん屋さんで食べることになった。


せっかく地方から銀座に親子で来て、このうどん屋はないだろう。

そう思いながら、小麦粉が食べれない私は、このうどん屋の小さないなり寿司を食べるだけになった。


雑巾くさいいなり寿司の味と汚い小屋と

あの時の母のためにと思って自分が我慢した思い出が蘇ってきた。



そして、同じ怒りが浮上した。


私がしたいことを、取り下げて、相手の喜びを優先する。


いい人そうで、自分の中に怒りが溜まっていくだけだった。


この良い人がややこしい。

私は、このゲイマンコーラスを楽しみたいんだ。


そう思った瞬間にアンドリューに言った。


「私は、あなたと一緒にこのショーを見たいと思っている。

 それと同時にあの席で存分に楽しみたいとも思っている。

 だから、ハーフタイムまでは一緒にあなたと見るわ。

 そしてハーフタイムになったら、私はあの席に戻って見たいの。良いかしら?」


と。


彼はもちろんっと言った。


そう、これだけ簡単なことなのだ。


そしてハーフタイムでアンドリューがおトイレに行ってる間に

私は、気持ちをアンドリューにメッセージで送った。


すごく怒りを感じたこと。

それは、母親との思い出の投影から来てること。

アンドリューは、私がこの席に一人で来たことについて私をひどい人間だと思うのではないかと不安に思うこと。

それでもこの席を取ってくれてとても嬉しいこと。


そしたら、アンドリューから

「僕は君の母親ではなく、旦那でありベストフレンドだから、君が一番だと思うことを選ぶ自由が君にはある」


とメッセージがきた。


それと同時に、また会場が暗くなりショーが始まった。


さっきまでムカついていたニコニコ笑って歌うゲイの人に私は拍手喝采をした。


これが多分すごくうまいバレリーナであっても、すごく上手なギタリストであっても

私の心が平穏でない限り、ケチをつけていたに違いない。


終わった後、私はとても満足をして帰ることになった。

そして、ふと、この我慢ってどこからきているんだろうと考えたとき、

ふと思い出した一人の女性を思い出した。


バービーでもリカちゃん人形でもない。


おかっぱ頭の三つ指ついた大和撫子だった。


口がついているんだか、ついていないんだか。

ついていたとて、声が出るんだか出ないんだか。


我慢して、全てに耐え抜く女性。

清楚な女性。


なんか、全然、私じゃないんですけど。


ガハハと大口を開けて笑い、

良い言い方をすれば、豪快、悪く言えばガサツ。

やりたいことをやり切って、言いたいことを言って、たまに調子に乗って嫌われる。


それでも、人と深く繋がって

目の前にいる人を理解しようとするし、愛でつながろうと思う。


大和撫子になろうとするって、、、、真逆じゃん


でも、バービーにしても、大和撫子にしても非現実的すぎる女性がもてはやされることが

問題なのではないだろうか?


非現実的とは、完璧すぎるということだ。

そもそも、あんな18頭身います?


何を理想にしているんだ。

知らないうちに、脳を飼い慣らされている感が半端ない。


その理想が、愛される形であり、あるべき人間関係なのだと、

知らないうちに自分を洗脳してしまった私の愚かさよ。


愛は綺麗な愛もあれば、ドロドロの愛もある。


爪に土が詰まった汚い手でこれを食えと差し出されるおいしい塩結びのような泥臭い愛もあれば

お互いをむさぼる動物のような愛もある。


10年の不倫の果てに実らなかった地面を這いつくばり心を痛めるような愛もあれば

年の差70歳など、他人には絶対に理解されない愛もある。


ただ、それらの愛を感じるには条件が一つある。


それは、自分が自分でいることだ。

それを放棄した瞬間に、愛から遠ざかる。


ガサツで、大和撫子やバービーから程遠い自分をオッケーにしない限り

愛を感じることは難しい。(←これ私のことです)


もしも、私が大和撫子になろうとすると

あの、リカちゃん人形の電話口から出てきたテレクラの「うっふん」と

嘘のエッチな声を出しているおばさんになってしまう。


気持ちが悪いに越したことがない。


「うっふん」


が気持ちが悪いのではなく、

「うっふん」がいいんでしょ?と、頭で誰かになろうとしていること自体が気持ち悪いのだ。


嘘のエッチな声を誰かのために出しているおばさんよりも

私はガサツで調子に乗ってたまに嫌われる私でいたいと思う。


それだったら、100%全員から愛をもらえなくても

90%の人からは愛をもらえる。


でも、嘘のエッチな声を出す他人を喜ばせるだけのおばさんになったら

100%自分のことを愛してもらえない。


そこで提示している自分がそもそも嘘だから。


脱・大和撫子


なのです。



モノクロから虹色へ









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