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人の目が気になる

1 日前
読了時間: 10分

更新日:7 時間前


私たち人間は、なぜこうも人目が気になるのだろう。


「人目が気になって、〇〇ができない」


これは、私がセッションをしている中でも、非常によく耳にする悩みの一つだ。


「人目なんて気にしなくていいのよ!」


「ありのままの自分で生きましょう!」


そんな言葉が当たり前のように語られ、多様性が大切だと言われる時代になっても、私たちの中から人目を気にする癖はなかなか抜けない。


でも、そもそも人目を気にしない人間になる必要があるのだろうか。


私はこれまで、さまざまな方のセッションをさせていただく中で、人目を気にするという行為の奥には、もっと根深い恐れがあるのではないかと感じてきた。


それは、単純に「嫌われたくない」ということだけではない。


人の期待を裏切ること。


「そんな人だとは思わなかった」と言われること。


「あなたとはもうやっていけない」と関係を断たれること。


無視されること。


話を聞いてもらえないこと。


自分が悪いと決めつけられること。


そして、ひとりぼっちになること。


そうしたことが起きるのを恐れて、私たちは自分の言動に細心の注意を払う。


こんなことを言ったら嫌われるかな。


あんな態度を取ったら失礼かな。


相手は今、私のことをどう思っているのだろう。


まるで自分自身を監視するかのように。


そして、相手の機嫌や表情、声のトーンには驚くほど敏感になっていく。


でも、ここで不思議なことが起きる。



相手が何を感じているかには敏感なのに、自分が何を感じているかには、案外気づいていないのだ。


自分が何を感じているのか。


何に傷ついたのか。


何が悲しかったのか。


そして、本当は何を望んでいたのか。


私たちは、自分のことをわかっているつもりで、実はそこまで理解していないことが多いのではないだろうか。


そして、そのことを改めて考えさせられる出来事が、今朝、我が家で起きた。



「ママ、ごめんね」に感じた違和感


今朝、長女に、玄関で待っているパパへお弁当を渡してほしいとお願いした。


長女は朝からテレビを見ながら、身体を動かすゲームをしていた。


「今、無理だよ」


という返事。


まじかよ。


私は、なんだか不機嫌になった。


その私の様子を見た娘は、ゲームをやめて私のところへやってきた。


「ママ、ごめんね」


うん?


なんか変。


この会話、なんか変じゃない?


娘は謝っている。


私は母親で、娘にお願いをした。


娘はそれを断り、私は不機嫌になった。


そして、娘が謝った。


一見、何の問題もない会話のように思える。


でも、私はそこに強い違和感を覚えた。



なぜ、私が正しいことになっているのだろう?


娘が謝ったことで、いつの間にか不機嫌な人が(私)正しくて、娘が間違っていたという構造になっている。


でも、本当にそうなのだろうか。


私が不機嫌になったのは事実だけれど、だからといって娘が間違っていたことにはならない。


今思えば、この違和感に気づけたのは、長年Integrated Healing(IH)に携わってきたからなのかもしれ

ない。


IHを通じて私がずっと探究してきたのは、自分自身を深く理解し、自分の内側の現実と外側の現実を一致させて生きるということだ。


私たちは、外側で起きている出来事には敏感だ。


誰かが怒っている。


誰かが自分に失望している。


誰かの期待に応えられなかった。


そして、その現実を何とかしようとする。


謝ったり、我慢したり、相手に合わせたり。


でも、その時、自分の内側では何が起きているのだろう。


本当はどう感じているのだろう。


何を望んでいるのだろう。


そこを理解しないまま、外側の現実だけを整えようとすると、表面的には問題が解決したように見えても、自分の内側には何かが残ってしまうことがある。


娘の「ごめんね」も、そうだったのかもしれない。


娘は私が不機嫌になったことに気づき、謝ってくれた。


でも、娘が本当はどう感じていたのか、私はまだ知らない。


そして、私自身も、なぜこんなに不機嫌になったのかを、まだ理解していなかった。


お互いの内側で何が起きているのかを知らないまま、外側だけで問題を終わらせようとしていた。



私が感じた違和感は、そこにあったのだと思う。


だから私は、一旦コンロの火を止めた。


朝のクソ忙しい時間に。


そして娘に言った。


「あのさ、ごめんねじゃないんだよね。ママの気持ちの中で何が起きていたか、話してもいい?」


私たちは向かい合って座った。


「ママは、あなたが身体を動かしている時に、パパにお弁当を持っていってほしかったの。


でも、あなたはゲームを優先した。


その姿を見て、ママは悲しかった。


人間よりもゲームを優先することに対して、ママはなんか嫌だったんよね



ママは、家族としてのつながり?助け合い? なんかそこら辺が欲しかったんだと思う。


だから今度は、ゲームをちょっと止めて、ママを手伝ってくれたら嬉しい」


もちろん、これは私の気持ちであり、私の価値観だ。


娘には娘の考えがあるし、私のお願いに対してYESと言うこともNOと言うこともできる。


私が母親だからといって、私の考えが絶対的に正しいわけではない。


すると娘は、


「ママ、今の話を聞いて、確かにゲームよりも人間だっていうのは、とても同意するわ。ママがどうして不機嫌になったのか教えてくれてありがとう」


と言った。


そして、また何事もなかったかのようにゲームに戻っていった。


なんだか私は、このやりとりがとても大切だったと思っている。



「ごめんなさい」で終わらせることの違和感


もしあの時、娘の「ごめんね」で会話を終わらせていたら、どうなっていただろう。


娘の中には、


「ママを怒らせてしまった」


「ゲームをしていた私が悪かった」


「今度からママを怒らせないようにしよう」


という思いだけが残っていたかもしれない。


つまり、自分よりも相手が正しかったことにして、その場を収める。


もちろん、謝ること自体が悪いわけではない。


自分が相手を傷つけたと気づいた時に、心から謝ることは大切だ。


でも、何が起きたのかもわからないまま、相手が不機嫌になったから謝る。


それは、本当にお互いを理解したことになるのだろうか。


そこには、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという関係が生まれてしまうことがある。


そして、正しくなかった側は、次から相手を怒らせないように、自分を監視するようになるかもしれな

い。


これって、まさに私たちが「人目を気にする」と言っていることと、同じではないだろうか。


一方で、私も自分の感情を理解しないまま娘を叱っていたら、どうなっていただろう。


「またゲームして!」


「ゲームばっかりしてないで!」


そんな言葉が出ていたかもしれない。



でも、私が本当に悲しかったのは、ゲームをしていたことそのものではなかった。


私が望んでいたのは、家族としてのつながり(というかまだよくわかっていないけど、 一応気持ちは伝えたその内容) だったのだ。


つまり、私自身もまた、内側で感じていたことと、外側で表現していたことが一致していなかった。


本当はつながりっぽいものを求めていたのに、外側では不機嫌という形で表現していた。


これでは、娘に私の本当の気持ちは伝わらない。


自分の感情を理解していなければ、私はゲームを問題にして、娘を責めていたかもしれない。


そして娘は、ゲームをすることに罪悪感を持つようになっていたかもしれない。


お互いに、本当に起きていたことを理解しないまま。


だから、あの時コンロの火を止めたことは、娘に何かを教えるためだけではなかった。


私自身が、自分の内側に戻るための時間でもあったのだ。



自分の気持ちを理解することと、自分を正当化することは違う


私がここで伝えたいのは、自分の気持ちを理解することと、自分を正当化することは違うということだ。


「私はこう感じた」


ということは、


「だから私が正しい」


という意味ではない。



自分の感情は、自分の中で起きている大切な事実だ。


でも、それが相手の間違いを証明するわけではない。


同じ出来事に対して、相手には相手の感情があり、考えがあり、望んでいることがある。


だからこそ、自分の気持ちを理解し、それを相手に伝えることが大切なのだと思う。


そして、相手の話も聞く。


そうすることで初めて、お互いが何を大切にしていたのかを知ることができる。


ここには、どちらが正しいかを決める必要はない。


ただ、お互いを理解しようとする姿勢がある。


私は、この姿勢こそが、人とつながって生きていく上でとても大切なのではないかと思っている。



自分を知ることは、人とつながるための入口


私たちは、怒っていることには気づける。


悲しいことにも気づける。


でも、その感情の奥にある、本当の願いにはなかなか気づけない。


怒りの奥には、理解してほしいという願いがあるかもしれない。


悲しみの奥には、大切にしてほしいという願いがあるかもしれない。


不安の奥には、つながっていたいという願いがあるかもしれない。


けれども、そこに気づかないままでは、私たちは目の前の相手を責めたり、自分を責めたり、あるいは

相手に合わせることで、その場を収めようとする。


だからこそ、私は「自分を見る」というワークが必要だと思っている。


自分が何を感じているのか。


なぜそう感じたのか。


そして、その奥で自分は本当は何を望んでいるのか。


それを知ること。


それは、人目を気にしなくなるためでも、ありのままの自分を押し通すためでもない。


むしろ、もっと人とつながるためなのだ。


自分の気持ちを理解できれば、相手を責める代わりに、自分の思いを伝えることができるかもしれない。


相手の気持ちを聞けば、自分が想像していたものとは違う世界が見えてくるかもしれない。


意見が違ってもいい。


期待を裏切ることがあってもいい。


時には、お互いを傷つけてしまうことだってあるだろう。


でも、それで関係が終わるとは限らない。


話し合うことができる。


理解し直すことができる。


関係を修復することもできる。


そして、これまでとは違う、新しい関係をお互いに選び直すことだってできる。


もちろん、すべての関係が修復できるわけではない。


どれだけ自分が向き合おうとしても、相手がそれを望まないこともある。


それでも、自分の感情を理解していれば、ただ相手の反応に振り回されるのではなく、自分がどう関わりたいのかを選ぶことができる。


自己理解から、自己一致へ


私がIntegrated Healingを通じて大切にしてきたのは、自分を理解することそのものをゴールにしないということだ。


自分が何を感じているのか。


なぜそう感じるのか。


そして、本当は何を望んでいるのか。


それを知ったうえで、自分がどう生きたいのか、どう人と関わりたいのかを選んでいく。


自分の内側で感じていることと、外側での言葉や行動を一致させていく。


それが、私の考える「自己一致」だ。


自己一致とは、自分の思いを押し通すことではない。


自分を正しいことにすることでもない。


自分の内側にあるものを理解しながら、相手にも同じように内側の世界があることを尊重する。


そして、お互いにとって新しい関係を選んでいくこと。


私は、人目を気にすること自体は、決して悪いことではないと思っている。


人の気持ちを想像すること。


相手がどう感じるかを考えること。


それは、人と関わって生きる私たちにとって、大切な力でもある。


ただ、相手の気持ちばかりを気にして、自分の気持ちがわからなくなってしまうのなら、そこには少し

立ち止まってみる必要がある。


人目を気にしない人間になる必要はない。


人の気持ちを大切にしながら、自分の気持ちも大切にする。


そして、うまくいかなかった時には、もう一度向き合ってみる。


人目を気にしないことが自由なのではなく、人目を気にしてしまう自分も理解したうえで、自分がどう関わるかを選べること。


私は、そこに本当の自由があるのではないかと思っている。


自己理解から、自己一致へ。


自分を知ることは、自分だけの世界に閉じこもることではない。


自分を知ることは、他者を知ることへの入口でもある。


そして、その先にあるのは、自分だけの自由ではなく、人ともっと深くつながって生きるという可能性なのだと思う。



自分らしく生きることと、人と深くつながること。


その二つは、決して相反するものではない。


むしろ、自分を深く理解することによって、私たちはもっと自由に、人とつながって生きていけるので

はないだろうか。


モノクロから虹色へ

 
 
 

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