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輪郭をぼかさない生き方 自分らしさをくっきり残すということ

2 日前
読了時間: 8分

昔の写真は、祈りみたいなものだった。


フィルムを入れて、シャッターを押して、現像に出す。仕上がるまで、だいたい1週間ぐらい待つ。やっと手元に戻ってきた写真を見て、そこに写っていた顔がぼんやりしていた時のあの悔しさ。


「お金かかったのに!」


そう思ったことが、何度もある。


ピントが甘い。手ぶれしている。誰かの腕が入っている。肝心の顔が半目。こちらは渾身の一枚のつもりだったのに、現像されてきたものは、なんとも言えない失敗作だったりする。


でも、どうすればよかったのかなんて、当時の私にはわからなかった。


シャッターを押す時に腕がぶつかったのか。レンズが悪かったのか。光が足りなかったのか。そもそもカメラの扱いが下手だったのか。


いやいや、そんなスキルを一般人が持っているわけがない。


フィルムもお金がかかる。現像もお金がかかる。カメラは重いし、嵩張るし、落としたら壊れるかもしれない。だからこそ、ぼやけた写真を見ると、心の中で舌打ちしたくなる。


私たちは、ずっと輪郭がくっきり出ることを望んでいたのだと思う。


↓動物園での父と私。父のチャックが半開きを補正したい笑



写真の輪郭はこんなに変わった


今はどうだろう。


iPhoneを取り出して、何枚でも撮れる。撮った瞬間に確認できる。気に入らなければ消せばいい。手ぶれ補正もある。色も変えられる。暗いところでも明るくできる。なんなら、あとからシャープにすることだってできる。


毛穴が見えるぐらい、シワの線まで拾うぐらい、画像はどんどん高解像度になった。


昔だったら「もう少しピントが合っていれば」と願っていたものが、今は簡単に手に入る。技術は、私たちの顔の輪郭を容赦なく見せるところまで来た。


それなのに、ふと思った。


私たちは、自分の人生に対しては、まだ1980年代の手ぶれ写真みたいな輪郭で生きようとしていないだろうか。


「私はこうです」

「俺はこう生きたいです」

「これが好きです」

「これは嫌です」

「ここは得意です」

「ここは未熟です」


そう言い切ることを、どこかで躊躇している。


遠目に見ると、なんとなく優しそう。横から見ると、誰かに似ている。正面から見ると、結局何者なのかよくわからない。


そんなふうに、自分の輪郭をぼかしたまま生きていることがある。


良いところだけをシャープにしたくなる


スマホを触っていて、突然インカメラに自分の顔がドアップで映ることがある。


あの瞬間、思わず「おっ」となる。


毛穴。シワ。たるみ。二重顎。なんなら歯の間に何か挟まっているかもしれない。


見たくない。できれば補正したい。光で飛ばしたい。角度を変えたい。スノービューティーをかけたい。


顔だけではない。性格も同じだと思う。


自分の未熟なところ。人から鬱陶しがられるところ。すぐに焦るところ。強がるところ。期待しすぎるところ。傷つくと黙るところ。正しさを振りかざしてしまうところ。


そういう部分を見つけた時、私たちはそれをシャープに出そうとはしない。


できるなら、現像にすら出したくない。


「これは私ではありません」

「たまたまです」

「本当はもっと良い人です」


そうやって、補正をかける。


でも、自分らしく生きるということは、自分の素晴らしいところだけを尖らせることではないのかもしれない。むしろ、至る点も、至らない点も、自分の一部として解像度を上げていくことなのかもしれない。



良い人製造機にならなくていい


この「輪郭をはっきりさせる」という言葉は、IHのチームのリンダちゃんの発言だった。


自分が良いと思うところも、悪いと思うところも含めて、自分の輪郭をいかに尖らせていくか。それが私たちがIntegrated Healingでしていることですよね、と。


その言葉を聞いた時、本当にその通りだと思った。


私たちは、いつの間にか「良い人」というピントに合わせようとする。


怒らない人。

迷惑をかけない人。

空気を読む人。

期待に応える人。

誰からも嫌われない人。


もちろん、人を傷つけないようにすることは大切だ。思いやりも、配慮も、謝る力も必要だと思う。


でも、世間一般でいう「良い人」にピントを合わせすぎて、自分という人間そのものがぼやけてしまったら、それは本当に自分の人生を生きたと言えるのだろうか。


良い人でいることが悪いわけではない。


ただ、良い人製造機になる必要はない。


怒る自分がいる。嫉妬する自分がいる。情けない自分がいる。面倒くさい自分がいる。誰かにわかってほしくて、でも素直に言えない自分がいる。


それらを全部なかったことにして、表面だけつるんとした人になることが、成熟ではないと思う。


成熟とは、見たくない自分を見ても、それを人生から追い出さないことではないだろうか。


母の「最高だった」という言葉


以前、母のことを書いた。


母だって、私が成長する過程でたくさんぶつかってきた。私を傷つけたこともあったと思うし、母自身が傷ついたこともたくさんあったと思う。


完璧な母だったわけではない。


でも、今の母が「私の人生は最高だった」と言うのを聞くと、子どもとして、私はなんの悔いもないと思える。


その言葉には、きれいな部分だけが入っているわけではないはずだ。


失敗もある。後悔もある。怒りもある。涙もある。ぶつかった日もある。それでも、それらを含めて「最高だった」と言えるところに、その人の輪郭がある。


私もそう言いたい。


誰かを何かの間違いで傷つけてしまうことがあるかもしれない。怒らせてしまうことがあるかもしれない。嫌な思いをさせてしまうことも、きっとある。


それでも、自分の輪郭をぼかしたまま、まあまあ、そこそこ、無難な良い人として生きる人生は嫌だなと思う。


多くの方のおかげで、私は本当に幸せに、いろいろな経験をさせてもらえた。そう言える人生にしたい。


その時に、毛穴もシワも二重顎も、歯に何か挟まっていた瞬間も、できれば全部込みで残したい。



更年期という節目に見え方が変わる


こんなに人生について考えるなんて、更年期ホルモンがそうさせているのかしらん、と思う時がある。


でも、きっとそういう節目に来たのだと思う。


20代は、何もわからずに努力と根性で突っ走った。


30代は、現状を突破したいという思いで、いろいろとのたうち回った。その中で、ようやく自分の人生の光のようなものを見出した。


40代は、知識も経験も少しは増えた上で、子育てをさせてもらっている。


若さと強さで乗り越えてきたものが、少しずつ同じ方法では通用しなくなる。エストロゲンの変化もあるのかもしれない。体も心も、前とは違う見え方をする。


若い頃は、多少ぼやけていても走れた。


でも今は、自分がどこに立っているのかを、ちゃんと見たいと思う。どんな顔で、どんな癖があって、何を大切にして、何に傷ついて、何に喜ぶのか。


ぼやけたままでは、もう進みにくい。


だから、輪郭をくっきり残したい。


誰かにとって都合のいい私ではなく、私自身が「ああ、これが私だった」と思える輪郭を。


くっきり生きることは怖いけれど自由だ


輪郭をくっきりさせるのは、怖い。


くっきりすれば、好き嫌いが生まれる。合う人と合わない人が出てくる。誰かにとっては眩しすぎるかもしれないし、誰かにとっては鬱陶しいかもしれない。


でも、ぼやけていれば安全かというと、そうでもない。


ぼやけたまま生きると、自分でも自分が見えなくなる。何がしたいのか、何が嫌なのか、どこで無理をしているのかがわからなくなる。


そして気づいた時には、他人のピントに合わせ続けた人生になっている。


もちろん、輪郭を出すことは、わがまま放題に生きることではない。人を踏みつけていいという話でもない。


むしろ逆だと思う。


自分の輪郭が見えている人は、他人の輪郭も見える。自分が何者かを知ろうとする人は、相手もまた別の輪郭を持った人だとわかる。


だからこそ、ぶつかることもある。謝ることもある。距離を取ることもある。もう一度近づくこともある。


それでいいのだと思う。



私は私の輪郭を残したい


自分らしく生きるとは、きれいな自分だけを採用することではない。


かっこいい自分も、みっともない自分も、優しい自分も、面倒くさい自分も、全部を見ながら生きることだと思う。


昔のブレブレ写真には、ブレブレなりの味がある。あの時代の愛しさもある。


でも、今の私は、もう少しだけピントを合わせたい。


毛穴が見えてもいい。シワが見えてもいい。二重顎がやばくてもいい。歯の間に何か挟まっていても、それでいい。


補正された誰かのような人生ではなく、私の人生を、私の輪郭で残したい。


最後に「私の人生は最高だった」と言う時、その言葉の中に、きれいな私だけではなく、全部の私が写っていたらいい。


iPhoneのおかげで、あの当時はやばいでしょって思っていた自分の顔の写真も数年経つと

全く違う目で自分を見ていることに気づく。


ああ、頑張っていたなあ。

必死だったなあ

がむしゃらだったなあ

目が死んでるじゃん

もううなだれてるじゃん


って。

自分を愛おしく思える。


だから、どの自分も消去しないでいきたいなと思う。


ただ消去しない一つの条件があると思っている。


幸せを感じることを諦めないことだ。

そして自分を幸せにすることに責任を負うことだ。


この表情は嫌だって思っても、絶対に未来には幸せに感じる日が来るのだ。

私は、今、こんな状態だけど、幸せのための布石にいるのだと。


そのためには、今の現状のストレスや問題を見る必要がある。


自分を認める必要がある。

その解像度を高める必要がある。


それは、嫌な作業に思えるかもしれないけど、

結構自己愛の作業なのだ・・・




そして自分の解像度をできる限りクリアに所有したい方には

ぜひ、Integrated Healingのセッションをおすすめです。



モノクロから虹色へ



 
 
 

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