決めつけ おばさん脳
決めつけは、安心に見えて、じわじわ世界を狭くする。
私は脳科学者ではない。なので「おばさん脳」という言葉も、医学的な話ではない。ここで言いたいのは、年齢や性別の話でもない。
私が勝手にそう呼んでいるだけの、あの感じだ。
根拠は薄いのに、妙に確信を持って言い切ってしまう脳。
「あそこの子、数学で満点だったらしいよ。もう東大行きだね」
「あの犬、臭いから、きっと変なもの食べさせられてるんだよ」
「あの子が荒れてるのは、親の愛情不足に違いない」
子どもの頃、近所の井戸端会議を聞きながら、私はよく思っていた。
なんで、そんなに決めつけられるんだろう。
本人たちは楽しそうだった。会話もよく弾んでいた。でも、聞いている私は少し怖かった。見てもいないことが、いつの間にか「事実」みたいに扱われていく。その速さが怖かった。
そして最近、もっと怖いことに気づいた。
私の中にも、それがあるということに!
決めつけは悪意よりも不安から生まれる
たとえば、子どもが何度も「ママ、大丈夫?」と聞いてくる。
その瞬間、私は思う。
「もしかして、愛情不足なのかな」
「私がちゃんと安心させられていないのかな」
「下の子に時間をかけられていないからかな」
子どもが咳をする。
「緑の野菜を食べさせていないからかな」
「昨日、外で冷えたからかな」
「私の管理が甘かったのかな」
下の子がやんちゃに走り回る。
「上の子の送迎に付き合わせてばかりだったからかな」
「私と二人きりの時間が少なかったからかな」
「だから落ち着きがないのかな」
私の中では、どれも真剣だ。ふざけていない。むしろ深刻に考えている。
でも、ある日ふと思った。
待てよ。これ、全部「根拠のない事実認定」では?
子どもが「ママ、大丈夫?」と聞いたのは、私がものすごく疲れた顔をしていたからかもしれない。咳はただの一時的なものかもしれない。やんちゃなのは、その子の気質かもしれない。眠いだけかもしれない。楽しいだけかもしれない。
それなのに私は、すぐに「私の育て方のせい」という物語に持っていく。
これが私の中の、おばさん脳から抜け出すには、
まず気づきたい部分だった。
決めつけは、必ずしも意地悪から出てくるわけではない。むしろ多くの場合、不安から出てくる。
理由がわからないことは怖い。だから、脳は早く答えを作りたがる。
「原因はこれだ」と決めると、一瞬だけ安心する。たとえその答えが間違っていても、空白よりはましに感じる。
でも、その安心は少し危ない。
一度決めると、それ以外の可能性が見えにくくなるからだ。
育児はずっと推測で動くしかなかった
子どもが赤ちゃんだった頃、毎日は推測の連続だった。
泣いている。
おっぱいかな。
おしっこかな。
さっきうんちはしたから、便ではないかな。
眠いのかな。
暑いのかな。
寒いのかな。
抱っこかな。
赤ちゃんは説明してくれない。こちらが推測して、試して、外して、また試すしかない。
「これは空腹に違いない」と思って乳首を出す。
違ったら抱っこする。
それでも泣くなら、おむつを見る。
それでもだめなら、部屋の温度を見る。
根拠なんてほぼない。観察と勘と経験で進むしかない。
それを何年も続ける。
すると、推測する力はものすごく鍛えられる。子どもの表情、声の調子、歩き方、食べ方、ほんの少しの変化を拾うようになる。
これは本来、とても大事な力だ。
問題は、その力が強くなりすぎたときだと思う。
育児の中では必要だった「たぶんこれだ」が、いつの間にか「絶対これだ」に変わる。家庭の中で使っていた推測が、外の世界にまで広がる。
「あの人が冷たいのは、私を嫌っているからだ」
「あの子が落ち着かないのは、親が甘いからだ」
「あの家庭はいつもきれいだから、きっと幸せなんだ」
そうやって、見えていない部分を勝手に埋めていく。
決めつけが怖いのは、人を小さく見るから
決めつけの怖さは、間違えることだけではない。
相手を一つの理由に閉じ込めてしまうことが怖い。
「あの子は愛情不足だから」
「あの人は怠け者だから」
「あの家庭はお金があるから」
「あの人は強いから平気だから」
こう言った瞬間、その人の複雑さが消える。
本当は、いろんな事情が重なっているかもしれない。本人にも言葉にできない理由があるかもしれない。たまたまその日だけ調子が悪かったのかもしれない。
でも、決めつけると、もう見に行かなくなる。
人間を観察しなくなる。
質問しなくなる。
待たなくなる。
一番近い子どもに対しても同じだ。
「この子はこういう子」と決めると、親は安心する。
扱いやすくなる。
でも、そのラベルが強すぎると、子どもの変化を見逃す。
昨日まで怖がりだった子が、今日は挑戦するかもしれない。
いつもやんちゃな子が、実は慎重に考えているかもしれない。
甘えん坊に見える子が、外では必死に頑張っているかもしれない。
決めつけは、世界をわかりやすくする。
でも、わかりやすくした分だけ、世界の広さを削っている。
抜け出す第一歩は言い切りをやめること
では、どうすればいいのか。
これはIntegrated Healingで学ぶ、可能性と陳述のお話だ。
陳述とは言ってみれば決めつけ。
決めつけの中で人は物事を結論づけて、それ以外の可能性に触れようともしなくなる。
だから、その決めつけたことが正しかったように世界を見る。
問題児だって決めつけたら、
問題児として扱うようになり、それ以外の可能性はない。
でも、可能性というのは、決めつけの中には存在できない。
これもいいかもしれない、あれもありかもしれない。
そういう風に可能性の中で物事を考えた時、自分の幅が大きく広がっていくことがある。
私はこの可能性の中に身を置きたい。
だって、決めつけたら呼吸困難になりそう。
私はお金がないから無理。
私は仕事が忙しいからできない。
私は家族を優先しないといけないから、諦める。
そんな決めつけの中で生きていくようになると、苦しい。
だからこのおばさん脳から脱却したいのだ!
そう思うと、Integrated Healingをやっていて本当によかったって思う。
なぜなら、その決めつけに揺さぶりをかけられるセッションの流れになっているから。
私はお金がないからそんなこと無理よねって思ってセッションが始まったとする。
終わった時には、お金が私の人生をコントロールするのではなく、私がお金を使って自分の人生を繁栄させる方向へと自分のマインドが向かっている。
私はこの決めつけってデカイなって思う。
この両者の生きた末の未来は全く違う人生が待っているのをご想像いただけるだろうか?
お金がないから無理と言って生きていった10年後と
お金に私の人生を手伝ってもらうと思って生きてる10年後
どうせ決めつけるなら、自分に素晴らしい可能性を持った決めつけに変換したいじゃないの。
そう考え
ると、
何年も女性の在り方が変わらないままなのは、
もちろん、女性の生き方として大切なことを守っているということもあるかもしれない、と同時に
このおばさん脳(赤ちゃんを産んだ人だけではなく、結局女性ホルモンがこうさせやすいのだと学んだ)が
女性の可能性を阻んでいるのかもしれない
と思うのだ。
完璧に決めつけをなくすのは無理だと思う。
人は推測する生き物だし、特に子育て中は推測がないと動けない。
だから目指すのは、決めつけゼロではない。
決めつけを仮説に戻すことか
自分に素晴らしい可能性を持った決めつけに変換することだ。
例えば前者であれば頭の中でこう言い換える。
「絶対」ではなく「かもしれない」にする。
たったそれだけで、少し空気が変わる。
「かもしれない」は弱い言葉に見える。
でも実は、世界を広げる言葉だ。
別の可能性を残してくれる。
相手を見る余白や可能性を残してくれる。
もしくは後者であれば
IHのセッションを受けて、自分にとって広がりしかない決めつけに設定していく。
決めつけをやめると、目の前の人が見えてくる
おばさん脳という言葉は、少し乱暴かもしれない。
でも私にとっては、自分への注意報としてちょうどいい。
また決めつけてない?
また見ていないものまで見たことにしてない?
また不安を事実みたいに話してない?
そう聞くための言葉だ。
目の前の子が笑っているなら、まずその笑顔を見る。
咳をしているなら、必要なケアをする。
不安そうなら、抱きしめる。
理由は、あとから考えてもいい。
すぐに答えを出さなくても、親は失格ではない。
むしろ、決めつけずに見続けることのほうが、ずっと難しくて、ずっと愛情がいる。
世界を広げる第一歩は、大きな勉強でも特別な訓練でもない。
「そうに違いない」と思った瞬間に、ひと呼吸おくこと。
そして小さく言い直す。
「そうかもしれない。でも、違うかもしれない」
その余白の中で、人も、子どもも、自分自身も、もう少し自由になれる。
そして私の場合はその決めつけが自分の可能性を阻むのであれば、
IHをして自分の本来の生き方に戻っていく。
そうやって私は、決めつけおばさん脳からの脱却を日々しているのである。
みなさんは決めつけて自分を縛り付けているものはないだろうか?
もしもそれを見つけたら、私が伝えてあげよう。
おばさん脳みっけた!笑 と。
モノクロから虹色へ



































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