使命に生きるとは
若い頃の私は、「使命」という言葉に、どこか強い光のようなものを見ていた。
自分の生まれてきた理由がわかれば、もう迷わなくなるのではないか。
誰かを羨むこともなくなり、自分に自信を持って、まっすぐ生きていけるのではないか。
そんなふうに思っていた時期が、20代から30代前半にかけて、何度もあった。
だから私は、いろいろなものに興味を持った。インドのアガスティアの葉、瞑想、ヒプノセラピー、生まれ変わり呼吸法、アーユルヴェーダ。色んな人に会ったし占いにもハマった時期があった。
自分はどう生きたら自分らしいのかを知りたくて、探して、学んで、実際に試していた。
どこかに答えがあると思っていた。
誰かが私に言ってくれる気がしていた。
「あなたの運命はこれです」
「これをやることが、あなたが生まれてきた理由です」
そう言ってもらえたら、私はそれを誠心誠意込めて生きる。そうすれば、人生の中に揺るぎない芯ができる。もう迷わずにすむ。
本気でそう信じていた。
20代の頃の私↓

使命はもっと立派なものだと思っていた
「使命感に燃える」という言葉がある。
私はその言葉の響きに、少し憧れていたのだと思う。自分のやるべきことがはっきりしていて、迷いなく進んでいて、何か大きなもののために生きている人。そういう人はきっと強くて、かっこよくて、簡単には揺らがない。
その頃の私にとって、使命とは「人生のメインテーマ」だった。
たったひとつの答えのようなものだった。
でも30代後半になり、家族という存在が私の人生に増えてから、その感覚は少しずつ変わっていった。
毎日は、思っていたよりずっと具体的だった。
うんち、おしっこ、ゲロ、おっぱい。
眠れない夜。
歩き始めた子どもの好奇心と、危なっかしさの間で見守る時間。
話せるようになった子どもと、自然の中にあるものを一緒に観察する時間。
ご飯を作り、掃除をして、片付けて、子どもの一日の話を聞く時間。
誰でもできるように見える。
大したことがないようにも見える。
でも、ものすごい量の労働と気持ちの切り替えが、そこにはある。
夜、お布団に入って子どもの体温を感じながら、「今日もみんな健康で無事だった」と思う。その瞬間は、本当にありがたい。

でも同時に、こうも思う。
使命感なんて、そんな責任重大なものを背負えるスペースが、今の私にあるのだろうか。
魅力的に見えた自分軸
「揺るがない自分軸」という言葉も、昔は魅力的に見えた。
でも子育ての毎日は、揺るがないどころではない。
さっきまで笑って子どもの話を聞いていたのに、目の前で椅子から転げ落ちそうになったら、「ちょっと!」と大きな声が出る。
かわいいなと思っていたのに、トイレくらいゆっくりさせてくれよと言いたくなる日もある。ドアの向こうで、小さな手が何度も叩いている。
ようやく座ってお味噌汁を飲めたと思ったら、「トイレについてきて」と呼ばれる。
あっちへ行き、こっちへ行き、気持ちも身体も、何度も中断される。予定していた自分なんて、すぐにほどけていく。
そんな毎日の中で、かっこよく「私のミッションを達成します」なんて言える気がしない。頭の中では、なぜかミッションインポッシブルの音楽が流れる。
昔の私は、あんなふうにボディースーツを着て、自分のミッションを鮮やかにこなせる人になりたかったのかもしれない。
今の私は、そんなボディースーツ入れやしない。それを細い目で思い出している。
使命は行動ではなく、愛の動きなのかもしれない
最近参加したワークショップで、David Boschという人の「Mission」についての話を聞いた。
私の理解では、その話はこうだった。
ミッション、つまり使命とは、何かを成し遂げる行動そのものではない。神の要素、あるいは神から世界へ向かう動きとして捉えられるものだという。
そして、人がその使命を生きるということは、神々が人へ愛を施す動きに参加すること。
言い換えれば、ミッションとは、人に愛を送ることなのだと。
その言葉を聞いた時、私の中で何かがふっと軽くなった。
使命感を持って何かをやる、と思うと重い。失敗できない感じがする。ちゃんとしなくてはいけない気がする。
でも「愛を人に送る行動を使命と呼ぶ」のだとしたら、話はまったく変わってくる。
それなら、私の人生の中にもうある。
大げさに構えなくても、すでに何度もしている。
重たい鎧を着なくても、軽く、ふわっとできる。
使命は、人生の頂上に掲げる旗ではなくて、日々の中に混ざる調味料のようなものなのかもしれない。
ほんの少し入るだけで、同じ毎日の味が変わる。
目立たないのに、あるとわかる。
なくても生きてはいけるけれど、あると自分の時間にあたたかさが戻ってくる。
仕事を通じて愛を届けることが好きだった
その話を聞きながら、私は思った。
私は仕事を通じて、人に愛を送ることが好きなのかもしれない。
Integrated Healingをしている時、私が何かを変えているという感覚はあまりない。むしろ、その人自身が自分の内側に触れて、少しずつ変化変容していく。その姿をそばで見ている。
その時間の中で、「自分に愛を送れる場所」を一緒に作れていることが、私はとても嬉しい。
Pilatesの時間もそうだ。
クライアントさんが、自分の身体と向き合う。動きの癖に気づく。呼吸に戻る。できる、できないを超えて、今の自分の身体を感じる。
その姿は、本当に美しいと思う。
誰かが自分を雑に扱うのをやめて、少し丁寧に触れ直す瞬間。
自分の身体に「ここにいたんだね」と気づくような時間。
その場を共有できることが、私は幸せなのだと思う。
だから私は、もう使命を生きているのかもしれない。
大きな名前をつけなくてもいい。
立派な肩書きにしなくてもいい。
「これこそが私の運命です」と声高に言わなくてもいい。
私という人生の中に、愛を共有する時間がある。
それだけで、十分に使命なのだと思えた。
自信ではなく、静かな納得が残った
若い頃の私は、使命を見つけたら自分に自信が持てると思っていた。
今、自分に自信があるかと聞かれたら、正直よくわからない。
毎日揺れる。
迷う。
怒る。
反省する。
また笑う。
またご飯を作る。
かっこいい自分軸が一本、身体の真ん中に通っている感じはしない。
でも、昔より少し楽になった。
それは、自信というよりも、静かな納得に近い。
私はたぶん、大きな使命を探していたのではなく、「自分の愛をどこに流したいのか」を知りたかったのだと思う。
家族と過ごす毎日にも、仕事で人と向き合う時間にも、それはすでに流れていた。完璧ではないし、いつも優しくできるわけでもない。それでも、愛を届けたいと思う方向に、私は何度も戻っている。
使命は重くなくていいんじゃないか。
息をするように、誰かを思うこと。
その人が自分に戻る場所を、少しだけ一緒に作ること。
今日も無事だったと、眠る前に小さく感謝できること。
それくらいの軽さで、使命は人生の中にあっていいのだと講演を聞いてて思った。
若い頃に欲しくてたまらなかったものを、私は思っていた形とは違う形で、
もう手にしていたのかもしれないなと感じた帰り道でした。
モノクロから虹色へ



































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