人の期待を裏切る
人は、自分を救ってくれた相手にほど、勝手に大きな期待を乗せてしまう。
この人なら、いつでも私をわかってくれるはず。
この人なら、どんなときも深く受け止めてくれるはず。
この人なら、私を雑に扱うはずがない。
そう信じたくなる。
30代の私は、まさにその状態だった。
「このままの自分ではダメだ」と思っていた。自分をどうにか成長させたくて、ワークショップに行き、講座を受け、人に会い、心のことを学び続けていた。
そんなとき、フェリシアという先生に出会った。
彼女のクラスを初めて受けたとき、私は本当に驚いた。なんて懐が深い人なんだろう。なんて情がある人なんだろう。人の心に触れる力が、こんなにもある人がいるのか。
2回目のクラスでは、彼女が私をデモンストレーションに起用して、みんなの前でセッションをしてくれた。
そのとき、私の中で何かが変わった。
人が本当に話を聞いてくれると、こんなにも安心するのか。
こんなにも力が戻ってくるのか。
こんなにも自分を信じられるようになるのか。
安心感とは、何かを達成したから得られるものだけではない。根底にある安心感は、何もしていなくても、もともとそこに「ある」ものなのだと。

75分間のドライブで憧れは崩れた
3日間の泊まりがけのワークショップが終わったあと、オーガナイザーの方に言われた。
「イズミ、先生を空港まで乗っけて行ってくれる?」
当時の私の家は、ロサンゼルス空港から車で15分ほどの場所にあった。
だから「もちろん!」と快く引き受けた。
山の中から空港まで、車でおそらく75分ぐらい。
私はフェリシア先生を助手席に乗せ、みんなに手を振られながら車を発進させた。
先生は満面の笑顔で、みんなに手を振っていた。
ところが。
その家を離れた途端、彼女の笑顔は一瞬で消えた。
「あれ?」
少し違和感はあった。でも私は、そこまで気にしなかった。むしろ、心の中ではワクワクしていた。
だって、憧れの先生と75分も二人きりなのだ。
聞きたいことは山ほどあった。
こんなときは、どうするんですか。
あんなクライアントさんには、どう対応するんですか。
人の心に触れるとき、何を大切にしているんですか。
質問をひとつ投げれば、そこから豊かな会話が始まる。私はそう思っていた。
が、しかし。
まず私は、ワークショップでどれほど感動したかを伝えた。拙い英語だったとは思う。
でも彼女の反応は、薄かった。
クソまずい味噌汁ぐらい薄かった。
肩透かしを食らった私は、「あれ、この話には興味がないのかな」と思い、
今度は感想ではなく質問に切り替えた。
でも、返ってくるのは「さあ」ぐらいの短い答え。
途中から彼女は、もう声をかけてくるなと言わんばかりに携帯を触り始めた。車内は静まり返った。
何も話さない。
何も話せない。
途中、旦那さんから電話がかかってきた。すると彼女は、甲高い声でウキウキと話し始めた。
電話を切ったあと、私はどうでもいい質問をした。
「旦那さんが空港まで迎えに来てくれるんですか?」
返事は「ああ」だけ。
その瞬間、私は完全に混乱した。
え、あの講習会のときの顔は何だったの。
私は誰と話しているの。
この人、本当に「あの」フェリシアなの。
私、何か悪いことした?
居心地の悪い75分が過ぎ、ようやく空港に着いた。
彼女は荷物を取ると、私の方を一瞥し、何も言わずに去っていった。
私はショックだった。
私の中でジャッジメント劇場が始まった
そこから、怒りが湧いてきた。
私はタクシードライバーじゃないっつーの。
なんでこんな扱いをされないといけないの。
あの人、二面性があって気持ち悪い。
あんな人が先生でいいの。
っていうか、私、何かしました?
頭の中は、彼女への批判でいっぱいになった。
数日間、その不快感を抱えて過ごした。やがて日常に戻り、その出来事は少しずつ薄れていった。
ところが半年後。
次のレベルのワークショップに参加すると、なんと彼女がファシリテーターだった。
会場で彼女の姿を見た瞬間、あの嫌悪感がふわっと戻ってきた。
「あ、出た」
私は心の中で、また身構えた。
でも不思議なことに、クラスの中の彼女はやっぱり素晴らしかった。人の話を聞く姿勢、場を支える力、必要なときに必要なことを言う鋭さ。どれも本物だった。
そこで私は、さらに混乱した。
車の中の彼女も本物。
クラスの中の彼女も本物。
どちらかが嘘なのではなく、どちらも彼女だった。
それを認めるのが、当時の私にはとても難しかった。
私が本当に怒っていた理由
私は彼女の態度に怒っていた。
でも、もっと深いところでは、自分の期待を裏切られたことに傷ついていた。
私は彼女に、先生であり続けてほしかった。
私の前でも、ずっと温かくあってほしかった。
あのセッションで感じた安心感を、もう一度与えてほしかった。
つまり私は、あの安心感を彼女に預けていた。
「あの人が優しくしてくれたら、私は安心できる」
「あの人が私を見てくれたら、私は自分を信じられる」
そういう形で、安心の主導権を相手に渡していたのだと思う。
もちろん、彼女の態度が気持ちよかったわけではない。
空港で何も言わずに去られたことは、今思い出しても雑だったなと思う。
でも、それと同時に見えてきたことがある。
私は、先生という存在に「完璧でいてほしい」と願っていた。
疲れないでほしい。
不機嫌にならないでほしい。
いつでも深く、やさしく、私を受け止めてほしい。
それは、人間に向ける期待としては、かなり重い。
ていうか勝手に期待して、勝手に怒っている。どうよこれ。
後日談
実は、後日談で、
「あの時、なんで全然話してくれなかったんですか?」
と彼女に質問した。
そしたらキョトンとした顔で、
「そんなことあったっけ?」
と言われた。
その雰囲気を見て、この人、マジで疲れていて、話す気力も残っていなかっただけなのかもとハッとした。
つまり、読者の皆様。
お分かりですか?
上記全て、私の頭の中の解釈で、真実には何も触れていなかった。
彼女は、二面性がある女でもなければ、
彼女は、私に使われてたまるものかと思ってたのでもなければ、
彼女は、教師という仮面をかぶっていたのでもなければ
彼女は、無礼な人でもなかった。
ただ、疲れていた。
それだけのことだった。
体重もあって、床に3日間座って講義をするのがしんどくて膝が痛かった。
あの後病院に行くぐらい痛かった。
更年期でホットフラッシュもあって、ぼーっとする時間が多かった。
そんな事を話していた。
そこに私がぐちゃぐちゃと仮説を立て、頭でこねくり回し、勝手に期待した事を裏切られ、悲しみを覚え、怒りを覚え、その結果「学び」を得た。
というIzumi劇場が繰り広げられていた。
つまり、この文章を読んでいる皆様は、私の頭の中で起きた1ミリも事実にかすりもしない、クソみたいなどーでもいいことに付き合っていただいていたわけです。
ということで、もう誰かの期待に応えようと生きなくても良くないっすか?
私の例を見てください。
怒ってる人は、勝手に怒って、距離とって、自分の人生からさって、まあちょっと高尚になれば、そこから学びまで見つけてくれる笑
だから、もう自分の人生を生きませんかっていうお誘いです。
医者だから
母親だから
旦那だから
先生だから
娘だから
インストラクターだから
プラクティショナーだから
父親だから
舞台俳優だから
もうよくね?
自分という人間が色んなことを自分を表現してやっている。
それで怒られても悲しまれても、知るか、ボケ。
自分らしくあることが、
人の期待を大いに裏切ってもいいんじゃないでしょうか?
そんなあなたに期待を
裏切られた人は、きっとIzumi劇場ばりに、その人劇場を繰り広げていると思います。
きっと高尚な人は、何年ごかに、学びを見つけて、感謝しにきます笑。
もう良くないですか?
期待を裏切っても。
自分を型にはめなくても。
まあ大切に思っている人が自分に怒りを向けてくるのはシンドイですけどね。
でも、その怒りに付き合っているうちは、きっと怒っている側は劇場の中にいることに気づけないんだと思います。
そして、あなただけではなく他の人にも、「私に期待を抱かせて裏切ったわね!」て,怒り続けていると思います。
だから私は怒りが湧いた時に、ふと、私はどんな期待を勝手に持っていたんだろうって振り返ります。
これ、オススメです。
モノクロから虹色へ



































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