バリ島から帰って来ました
たくさんの収穫を得て帰って来た今回の旅。
久しぶりに生徒という立場で、
自分が普段後回しにしていた自分の癖をまじまじと顕微鏡で見る作業を
今回はしようと決めてバリ島に向かいました。
今回のクラスはタントリックヨガと言って、自分のセクシャリティをエクスプロアする内容でした。
◉卵巣とつながる呼吸
◉おっぱいマッサージ
◉膣のワーク
◉呼吸のワーク
などなど
裸になって自分のカラダについて学ぶ機会については何度となく受けてきましたが
ここまで自分の子宮や膣に対してずっとアテンションを注ぎ、手で触り、エクスプロアした時間はなかったかと思います。
ブログに書くのははばかられる内容ばかりですので、
今月のニュースレターでシェアさせていただけたらと思います。
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セクシャリティがあることによって、私はこの世に生まれてきたけれども
セクシャリティというのは、
プレゼンテーションの仕方によっては、下品にもなり得ます。
逆に、下品にプレゼンテーションすることを目にすることが多いかもしれない。
上品にセクシャリティをプレゼンテーションしている人って、
今まで見たことがないというのが私の経験です。
(私がセクシャリティに対して、セクシャリティが上品ではないというのが大いに入っているため)
極論をいうと、
例えば、外を歩いていて、アパートから女の人の喘ぎ声が聞こえた時に、
それを上品だなあと思うよりも、自動的に眉をひそめてしまうことが多いです。
おしっこやうんこをして、上品な排泄の仕方ですね
と言わないように、
やっぱり下の話になると、どこか下品さがつきまとうような、、、なんたらかんたら。
でも、それでも気になる。
中学生の頃から、女子トイレにある三角コーナーのナプキン入れが気になって仕方がなかった私。
だけど、お下劣なような気もする。
そんな私は、このセクシャリティに対して、解剖学の視点からいつも見ていました。
解剖学を通じて、へええええ〜!!と思うことばかりでした。
人間のカラダってすごーい。
で、実際に本当にすごくて私はたくさんの解剖学の本を読んだり、たくさんの体にまつわるヒーリング/マッサージのクラスを受けたり話を聞いてきたりしました。
ただ、この盲点は
うんこの出来上がり方や排便にまつわる沢山の解剖学的な見解は知っているけど、
実際に「便秘が治らない」のと一緒で
子宮や膣の仕組みを知っていて、そのカラダの叡智に感嘆をしていても
実際にそこまでの自分の性を100%開花したという経験がまだないということです。
なんか、私が知らないことがもっとある気がする。。。。
アンドリューとの夫婦生活に問題があるとかではなく、なんか、もっと私が知らないことがある気がする。
そんな風に思っていたのですが、
私にとってその開花をブロックしているのが、
この『セクシャリティは下品になりうる』という可能性だった気がします。
そんな時アンドリューがワークショップから帰ってきて言った言葉でハッとしました。
『今回のワークショップで気づいたんだけど、
小さい頃から、僕は、性行為。もしくは、自分の生殖器が
”神聖なもの”って誰も言ってくれなかった気がするよ。
性行為に関しては、「誰が一番早くやったことがあるか」っていう競争だったり、
他の女の子の性器について、
あの子のあそこはしまっていて良いとか悪いとかジャッジしたり、
自分の性器に対して、大きいとか小さいとか、ジャッジされるのを恐れたり。
神聖なものであり、神聖な行為だから、丁寧に扱ってあげようなんて
聞いたこともなければ、誰も話さなかったし、教えてくれなかったよ。』
性器や性行為が、下品ではなく
神聖な美しいものだっていう感覚を知りたいな〜
そんな風に思っていた矢先のタントリックヨガリトリートだったわけです。
そして、私が学んだ先生は本当にこの自分の湧き上がる性の感覚を
とっても神聖にプレゼンテーションして見せてくれました。
そんなクラスの始まり。
続く
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いろい