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幸せであることを認めよ

11 分前
読了時間: 9分

幸せな人は、幸せだと認めていい。


私は本気でそう思っている。

目立つ人は目立っていい。

美しい人は美しいと言われて受け取っていい。

才能がある人は、才能があることを隠さなくていい。


何か素晴らしいことが起きたなら、「ありがとう、嬉しい」と両手で受け取っていい。


それなのに、私たちはなぜか自分の幸せを小さく見せようとする。


「そんなことないです」

「たまたまです」

「私なんて全然です」


もちろん謙虚さが悪いわけではない。

でも、自分に起きた喜びや、神様からもらったものまで無かったことにするなら、

それは誰のためなのだろう。


誰が得をするのだろう。


私はそこに、ずっと不思議さを感じてきた。



幸せを否定する癖はどこから来るのか


先日、とても可愛くて、美しくて、スタイルも良い人がいた。

彼女に素晴らしいことが起きたのに、それを全然受け取らない。


見ていて、私は本当に不思議だった。


「なんでそんなに受け取らないの?」


そう聞いたら、彼女は幼少期の話をしてくれた。

友達に「お嬢様」と呼ばれるのが嫌だったらしい。

そこから、「そんなことない」と否定する癖ができたのかもしれない、と。


私は心の中で思った。


私はお嬢様と呼ばれたかったぜ、と。


でも、笑い話だけでは終わらない。

人は意外と、小さな言葉で自分の輝きを閉じ込める。


「目立つと嫌われる」

「楽しそうにしていると妬まれる」

「幸せそうにしていると攻撃される」

「美しいと言われたら、否定しないと感じが悪い」


そうやって、自分を守るために幸せを隠す。

褒め言葉を打ち返す。

成功を偶然にする。

美しさを欠点で塗りつぶす。


たしかに、誰かの妬みを受けるのは嫌だ。

嫌な言葉をぶつけられるのも辛い。

だから身を守るために、自分を小さく見せることを覚える。


けれど、その生き方を続けていると、自分自身まで本当に信じ始めてしまう。


「私はたいしたことない」

「私は幸せではない」

「私は受け取るに値しない」


これは謙遜ではなく、自己否定に近い。


幸せを認めることは、自慢ではない。

自分の現実を、静かに受け止めることだ。


幸せを語れる人は人を安心させる


私は、幸せな人が「私は幸せです」と言ってくれた方が、世界は少し平和に近づく気がしている。


なぜなら、幸せをちゃんと感じている人は、人から奪わなくていいからだ。

自分の中に満ちているものがあると、人の幸せを見ても焦らない。

人の美しさを見ても、引きずり下ろさなくていい。

人の成功を見ても、自分の負けにしなくていい。


逆に、自分の幸せを認められない人は、人の幸せも受け取りづらい。

誰かが楽しそうにしているだけで、なぜか自分が置いていかれたように感じる。

誰かが褒められているだけで、自分が否定されたように感じる。


でも本当は、誰かの光は自分の光を消さない。


誰かが美しいことと、自分が価値ある存在であることは、同時に成り立つ。

誰かが幸せであることと、自分が幸せになることも、同時に成り立つ。


だからこそ、幸せな人は幸せを隠さなくていい。


「私は幸せです」と淡々と言える人は、周りに安心を配っている。

誇らしげでもなく、自慢げでもなく、卑下するわけでもなく、ただ事実として幸せを語る。そういう姿は、見ている人に静かな勇気を渡す。



母が教えてくれた最高に幸せな人生


私の母は、幼少期に戦争を経験した人だ。


母の話を聞くたびに、私は胸が苦しくなる。


もし自分がその現実の一片でも見ていたら、気持ち悪くて、辛くて、毎日泣き腫らしていたのではないかと思う。


でも母は、その過去を大げさに飾らない。

淡々と話す。


きっと、生き残るためには、恐ろしい現実を過去として受け止めるしかなかったのだと思う。


ある時、私は母に聞いた。


「お母さんは、自分の人生を振り返ってどう思う?」


母は言った。


「最高に幸せな人生だった」


私は続けて聞いた。


「過去に戻って、何かやり直したいことはある?」


母は、一切ないと言った。


なぜかと聞くと、母はこう話してくれた。


「旦那が死ぬことなく健康にここまで一緒に生きて、子供たちも元気に成長して、孫まで見れる。こんな幸せなことがあるか。周りを見たら、旦那が死んだ、子供が死んだ、孫に出会う前に自分が死んだという人がたくさんいる。その中で、自分がこうやって誰の死にも遭わずに健康に生きていられるのは、本当に幸せなことだ」


その言葉は、誇らしげでもなかった。

自慢げでもなかった。

卑下でもなく、謙遜でもなかった。


ただ、淡々とした真実だった。



それを聞いた時、私はこの人の娘でよかったと思った。


母は、戦争を経験したから不幸だと言うこともできた。

傷を理由に、幸せではない人生だったと語ることもできた。

もちろん、そう感じる人がいてもいい。

それぞれの痛みには、それぞれの重さがある。


でも母は、自分の人生を「最高に幸せ」と言った。


その姿から、私は学んだ。


幸せは、完璧な人生にだけ訪れるものではない。

傷がない人だけが言える言葉でもない。


幸せは、今あるものを見つめた時に、静かに立ち上がってくるものなのだと思う。


欠けているところを見たら誰でもキリがない


私自身も、とても幸せだと思っている。


大好きな旦那がいる。

大好きな子供がいる。

カリフォルニアに住めている。

大好きな仕事ができている。

その仕事を通じて、素晴らしいスタッフやメンバーに出会えている。


こんな幸せなことってあるだろうか、と思う。


時々、こう聞かれることがある。


「Izumiさんが幸せに感じるのは、たくさんのワークショップを受けて、自分と向き合ってきたからですか?」


その質問を受けて、自分に問い直したことがある。


答えは、NOだった。


もちろん、ワークショップや内面と向き合う時間は大きな支えになることがある。

でも、どれだけ学んでも、どれだけワークを受けても、幸せだと認めない人はいる。


幸せを感じる力は、知識の量だけで決まらない。


私だって、自分の欠けているところを見たらキリがない。


なんですぐ日焼けして顔が黒くなるのだろう。

なんで下の歯が変な方向を向いているのだろう。

なんで目が細いのだろう。


いつからこの二の腕の肉は登場したのだろう。


探せば、どうでもいいことから深刻に見えることまで、いくらでも出てくる。


でも、総じて私は幸せだ。


欠点があるから幸せではない、ということにはならない。


悩みがあるから幸せを名乗れない、ということにもならない。


人生に不満が一つもない人だけが幸せだと言えるなら、ほとんどの人が一生その言葉を使えない。


幸せは、欠けているものがゼロになった状態ではない。


今あるものを、ちゃんとあると認める力なんじゃないか。


幸せを感じると成長が止まるという誤解


昔の私は、幸せを感じたらそれ以上望めなくなるのではないかと思っていた。


「もう幸せです」と言ったら、そこで成長が終わる気がした。


満足したら、向上心がなくなる気がした。


だから、少し足りない自分でいる方が安全だと思っていた。


でも、それは違った。


幸せを感じると、人生は止まらない。

むしろ、幸せを感じられる状態の方が、もっと幸せを受け取りやすくなる。


幸せだと感じているから、人に優しくできる。

幸せだと感じているから、人に寛容になれる。

幸せだと感じているから、誰かの成功を喜べる。

幸せだと感じているから、次の挑戦にも明るく向かえる。


不足感だけを燃料にして走ると、どこまで行っても足りない。

達成しても次の欠けを探す。

褒められても受け取らない。

休んでも罪悪感が出る。


幸せを燃料にすると、動き方が変わる。


もっと楽しみたいから進む。

もっと分かち合いたいから働く。

もっと自分を生かしたいから挑戦する。

そこには、焦りよりも広がりがある。


幸せを認める勇気が人生を変えるのは、そのためだと思う。


自分はもう幸せだと認めた瞬間、人生を追いかける姿勢から、人生を味わう姿勢に変わるんじゃないだろうか。


そして不思議なことに、味わっている人のところには、また味わいたくなるような出来事がやってくる。


惨めでいる方が楽な時期もある


もちろん、幸せを感じないことを望むなら、それも一つの選択だと思う。


人には、その時々で必要な場所がある。

悲しみの中にいたい時もある。

怒りを手放したくない時もある。

まだ幸せと言いたくない時もある。


それを無理に変えなくていい。


でも、もし本当は幸せを感じたいのに、自分でブレーキをかけているなら、そのブロックには向き合った方がいい。


私は、惨めでいる方が楽しかった時期があった。


惨めでいると、なんとなく人に紛れられる感じがした。

孤立しないで済む気がした。

「私も大変」「私もかわいそう」と言っていれば、誰かと同じ場所にいられるような気がした。


でも結局、惨めでいる時は、惨めでいる人に囲まれていただけだった。


ある時、ふと思った。


私って、やべーじゃん。


そこから私は決めた。


幸せでいる人に囲まれた人生を送る

すると、物事が少しずつ反転していった。

会う人が変わった。

選ぶ言葉が変わった。

反応の仕方が変わった。

自分の喜びをすぐに否定する癖にも気づけるようになった。


幸せになるためのワークをするなら、意図が大事だと思う。


なんとなく苦しみを掘り続けるためではなく、明確に「幸せになりたいから受ける」と決める。


自分を責める材料を増やすためではなく、自分を幸せの方向へ連れていくために使う。


幸せはフルに享受していい


幸せを感じたいのに止めている人を見ると、私は全力で言いたくなる。


幸せを感じちゃえよ笑、と。


褒められたら、受け取っていい。

嬉しいことがあったら、喜んでいい。

きれいだと言われたら、「ありがとう」でいい。

愛されているなら、愛されていると認めていい。

恵まれているなら、恵まれていると認めていい。


それは誰かを見下すことではない。

誰かを負けにすることでもない。


自分の器に注がれているものを、こぼさずに受け取ることだ。


そして、受け取った人は、次に分かち合える。

幸せで満ちている人は、人の幸せを奪わない。

むしろ、周りに優しさや余裕を広げていく。


私は、母が淡々と「最高に幸せな人生だった」と言った姿を忘れない。


あの言葉は、私にとって人生のお守りのようなものだ。

過去に何があったとしても、今ある幸せを数えていい。

悲しかったことがあっても、幸せだったと言っていい。

欠点があっても、私は幸せだと名乗っていい。



幸せであることを認めるには、少し勇気がいる。


誰かに妬まれるかもしれない。理解されないかもしれない。

感じが悪いと思われるかもしれない。

昔の癖で、すぐに否定したくなるかもしれない。


それでも、自分の幸せを無かったことにしなくていい。


今日、何か一つでも「私は幸せだ」と言えることがあるなら、それをちゃんと認めてみる。

小さくてもいい。

淡々とでいい。

大袈裟に叫ばなくてもいい。


「私は、これがあって幸せです」


その一言を、自分に許す。


幸せだといえる人が新たな幸せを呼び込むのだとしたら、

自分の幸せを所有しないなんて選択肢はあり得ないでしょっていつも自分に話している。


モノクロから虹色へ


 
 
 

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