top of page

「わからない」を手放すと人生が動き出す理由

  • 4 日前
  • 読了時間: 7分

「わからない」って、本当に便利な言葉だと思う。


答えなくていい。

決めなくていい。

責任を取らなくていい。

傷つかなくていい。

失敗もしなくていい。


もちろん、本当にわからない時もある。

知識が足りない時、情報が足りない時、心が追いついていない時。

そういう「わからない」は自然なものだ。


でも、ある時から私は気になり始めた。


その「わからない」は、本当にわからないのか。

それとも、自分の可能性に責任を持たないための言葉になっていないか。



GROWで出した小さな宿題


IHの講習会の後に、月に1度、GROWというミーティングをしている。


そこでは、IHのセッションの流れを確認したり、手技を見直したり、セッションがよりスムーズに、効率よく進むようにサポートしている。


今回参加してくださっていた生徒さんたちは、ほとんどの方がすでにIHをスムーズにできている様子だった。


だからチームのみんなで話し合い、今回は手技そのものよりも、もう少し「質問力」を鍛える時間にしようというプログラムにした。


その中で、今月の宿題として、教科書の中にある5つの質問を実際に使ってきてください、とお伝えした。


そして、その5つが難しければ、これだけでもやってきてください、と言った質問がある。


それが、


わからないかもしれないけど、もしも分かるとしたら?

という問いだった。


セッションをしていても、普段の生活の中でも、

「えー、よく分からないなあ」という言葉をよく聞く。


英語で言えば、`I don't know`。


一見、ただの返事に見える。

でも、この言葉の奥には、その人の人生の癖が出ることがある。


70代のファシリテーターに言われた一言


私自身も、ずっと「わからない」を使っていた。


あるミーティングに参加した時のこと。


「Izumiにとって、〇〇はしたいことなの?」


そう聞かれて、私はすぐに答えた。


「えー、わかんないよ」


次に、別の角度から聞かれた。


「じゃあ、〇〇だったらどう?」


それでも私は、きっと同じように答えていた。


「えー、どうかなあ。分からないなあ」


その時、70代の髭面のファシリテーターが、静かにこう聞いた。


分からないだろうけど、もしも分かるんだとしたら、したいと思う?

その一言が、私には刺さった。


「分かるんだとしたら」


私は、分かる自分なんて想定していなかった。

そもそも、分かる自分でいるのは面倒くさいと思っていた。


だって、分かってしまったら、選ばなくてはいけない。

選んだら、動かなくてはいけない。

動いたら、失敗するかもしれない。


だから、分からない自分でいた方が楽だった。


「わからない」と言っていれば、人生のハンドルを握らなくて済む。

挑戦しなくて済む。

誰かに決めてもらう余地を残せる。


その瞬間、私は自分の思考パターンに気づいた。


私は「分からない」でのらりくらりと、自分の人生を決めることから遠ざかっていたんだな、と。



「もしも分かるとしたら」が開く扉


それから私は、自分にも人にも、この問いを投げかけるようになった。


「今は分からないかもしれない。でも、もしも分かるとしたら?」


この問いは、相手を追い詰めるためのものではない。

無理やり答えを出させるためのものでもない。


むしろ、固まってしまった思考に、小さな隙間を作る問いだ。


「わからない」と言った瞬間、人はそこで止まりやすい。

でも「もしも分かるとしたら?」と聞かれると、頭の中に別の可能性が生まれる。


たとえば、


  • 本当は、やってみたいのかもしれない

  • 怖いだけなのかもしれない

  • 失敗したくないだけなのかもしれない

  • 誰かに反対されるのが嫌なのかもしれない

  • 自分には無理だと決めつけているのかもしれない


そうやって、ぼんやりした「わからない」の輪郭が見えてくる。


大事なのは、完璧な答えを出すことではない。


今の自分が、どちらに少しだけ体重をかけているのかに気づくこと。


「やりたいのか、やりたくないのか」

「進みたいのか、止まりたいのか」

「怖いけれど進みたいのか、本当は望んでいないのか」


その違いが見えてくるだけで、次の一歩は変わる。


Aさんが見せてくれた変化


週明け、GROWに参加してくれていたAさんから、こんなコメントをいただいた。


「この間の『I don't know』についての内容が、私には結構刺さったの」


そして、こんな話をしてくれた。


ある日、Aさんは〇〇をやってほしいと言われたそうだ。

でも、それは自分にはハードルが高い気がした。


その瞬間、頭に浮かんだのは、


「できるかどうかわからない」


という言葉だった。


いつものように、その言葉で止まりそうになった。

でも、その時に気づいたそうだ。


「あ、私、わからないって言って、自分の責任を転嫁しているんだ」


そこから彼女は、こう決めた。


「できるかどうかはわからない。でも、やってみる。やってみてから考える」


そして、実際にやってみた。


結果は、


「できたの!」


その話を聞いた時、私は本当にうれしかった。


宿題は、人に対して質問してくることだった。

でも彼女は、まず自分を振り返った。


自分に制限をかけていた「わからない」という言葉のマジックに気づいた。

そして、それを打破するように行動した。


ここが、本当に素晴らしいと思った。


気づくだけで終わらなかった。

分かったつもりで終わらなかった。

ちゃんと一歩、行動に移した。



変わりたいと言うだけでは人生は変わらない


正直に言うと、私は最近、「変わりたい」と言い続けながら行動しない人とは、少し距離を置こうと思い始めている。


こう書くと、きつく感じるかもしれない。


でも、手を繋いでも、行き先を示しても、励ましても、やる気になってもらおうとしても、最後の最後で動かない人はいる。


それが悪いと言いたいわけではない。

人にはタイミングがある。

変わらないことで守っているものもある。


ただ、本当は変わる気がないのに、「本気で変わりたい」と言い続ける人と一緒にいるのは、やっぱり疲れる。


私は、変わらない人を嫌いなわけではない。


でも、ここからの人生で時間を共にしたいのは、Aさんのように、怖くても行動する人だと思っている。


「できるかどうかわからない」

「でも、やってみる」


この姿勢を持っている人といると、場が動く。

会話が動く。

人生が動く。


反対に、「わからない」でずっと止まり続ける人といると、その場に重たい霧がかかったようになる。


どれだけ可能性があっても、本人が選ばなければ、誰も代わりに人生を動かすことはできない。


「わからない」を責めなくていい


ここで誤解してほしくないのは、「わからない」と言ってはいけない、という話ではない。


わからない時は、わからないでいい。


ただ、その後にもう一つだけ、自分に聞いてみてほしい。


もしも分かるとしたら、私はどうしたい?

この問いは、自分を責めるためのものではない。

自分の本音に近づくためのものだ。


すぐに答えられなくてもいい。

立派な答えでなくてもいい。

小さな感覚でいい。


「本当は、ちょっとやってみたい」

「本当は、やりたくない」

「怖いけど、気になっている」

「失敗したら恥ずかしいと思っている」


そのくらいで十分だ。


人生が動き出す時は、いつも大きな決断からとは限らない。


小さな本音を認める。

小さく選ぶ。

小さく動く。


その積み重ねが、気づいたら大きな変化になっている。



分からないままでも一歩は選べる


今の自分には分からないことがある。

それは当たり前だ。


でも、未来の自分が分かるとしたら、今の自分は何を選ぶのだろう。


私は、あの70代のファシリテーターの一言から、そう考えるようになった。


「わからない」は、とても便利な言葉だ。

でも時々、それは自分の人生から逃げるための隠れ蓑になる。


だからこそ、そこで終わらせない。


「わからない」

その後に、こう続けてみる。


「でも、もしも分かるとしたら?」


この一言が、自分の中に眠っていた答えを起こしてくれることがある。


そして答えが少しでも見えたなら、次にすることは一つ。


小さくてもいいから、やってみる。


人生を変えていく人は、完璧に分かっている人ではない。

分からないままでも、一歩を選ぶ人だし、仕事ではそういう人と関わっていきたいと強く思う。


モノクロから虹色へ


 
 
 

コメント


Featured Posts
Recent Posts
Archive
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page