あなたは誰?
次から次へと悪いことが起こる日って、本当にある。
夫の友人が職を失ったと連絡が入った。
しかも同じタイミングで、犬がひきつけを起こしたらしい。
その最中に車のエンジンランプまで点滅して、修理に出さなければいけなくなったという。
もう、どこから手をつけたらいいのか分からない。
笑えないぐらい、重なるときは重なる。
そんな状況で、彼はこう言ったらしい。
神よ、私に何を気づいて欲しくてこの状況を引き起こしているのですか?あなたのために何をしたらいいですか?
映画でも、ドラマでも、日常でも、聞いたことがあるような言葉だ。
でも私は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がザワッとした。
違和感というより、もう少し乱暴な感情。
怒りに近かったかもしれない。
なぜそんなに反応したのか。しばらく考えて、たぶん私は「自分がない」感じが苦手なのだと思った。

神を信じていないわけではない
最初に言っておきたいのは、私は神様を信じていないわけではない。
神社に行けば、その場の空気に圧倒される。
鳥居をくぐった瞬間に、背筋が自然と伸びるような感覚もある。
説明できないところで助けられたと思うことも、これまで何度もあった。
なんなら「マジ信じてる」と書いたステッカーを車に貼りたいぐらいだ。
いや、貼らないけど笑
そのぐらいには、見えないものの存在を否定していない。
それなのに、彼の言葉が妙に癪に触った。
「神よ、これは何のメッセージですか」
そう考えること自体が悪いとは思わない。
信仰の形は人それぞれだし、つらい出来事に意味を見つけようとすることで、
人は立っていられることもある。
でも、私の中の何かが言った。
自分の人生なのに、そこに自分はいないの?
もちろん、これは私の勝手な反応だ。
彼を責めたいわけではない。
彼にとっては、神が中心にある人生こそが、自分の人生なのだと思う。
それでも私は、どうしても反応してしまった。
「あなたはどうしたいの?」
「あなたは何を感じたの?」
「あなたは何を選ぶの?」
そんな問いが、私の中で勝手に立ち上がっていた。
私は「自分が不在」の会話が苦手なのかもしれない
誰かと話していて、妙に居心地が悪くなる瞬間がある。
別に悪い人ではない。
優しいし、ちゃんとしている。
社会的にも問題ない。
むしろ、きちんとしている人に見える。
でも話しているうちに、ふと分からなくなる。
私は今、一体誰と話しているんだろう。
世間の正解。
家族の期待。
宗教の教え。
周りからどう見られるか。
誰かに嫌われないための言葉。
そういうものが何層にも重なっていて、その人本人の声が聞こえない感じがする。
「私はこれが好き」
「私はこれをやってみたい」
「私はこれが嫌だった」
「失敗したけど、楽しかった」
そういうシンプルな言葉が出てこない。
もちろん、人には事情がある。
家庭も仕事も年齢も、育った環境もある。
好き勝手に生きればいいと言いたいわけではない。
でも、自分の中にある欲望や喜びや悔しさを、全部どこかに預けてしまう感じが
私は苦手なのだと思う。
神様でも、夫でも、親でも、子どもでも、世間でもいい。
誰かに人生の主導権を渡してしまうと、その人と話しているようで、話していない気持ちになる。
目立つ人は目立って生きればいい
最近、周りにいると自然と目立つ人に会うことが多い。
先日、ピラティスに来てくれた方もそうだった。
パッと華やかな雰囲気がある。
別に派手なことをしているわけではないのに、人目を引く。
そこにいるだけで、空気が少し明るくなるような人だった。
そんな彼女が、サンディエゴから日本まで「ひっそり」来ようとしていたと聞いて、私は驚いた。
もちろん、凱旋パレードみたいに来る必要はない。
飛行機を降りた瞬間に紙吹雪を撒く必要もない。
でも、自分がやりたいことをやっているなら、言ってもいいのではないかと思った。
楽しみにしていることを、楽しみですと言ってもいい。
挑戦していることを、挑戦していますと言ってもいい。
彼女はこう言っていた。
自分が何かをしようとしたときに、妬まれたり、嫌な思いをする人がいるんじゃないかと思うと、あまり言えない。
「あの人、あんなことして」
「あの人、またひけらかしている」
「あの人、調子に乗っている」
そんなドラマみたいなこと、本当にあるの?と思うけれど、実際にあるのだろう。
でも私は思う。
目立つ人は、目立って生きるべきだ。
その人に華やかさがあるなら、使えばいい。
人を惹きつける力があるなら、大いに使えばいい。
もしそれが神様から与えられたものなら、なおさら使えばいい。
才能も、雰囲気も、行動力も、明るさも、人に安心感を与える力も、隠し続けるためにあるわけではない。
嫉妬は相手の責任ではない
誰かが自分らしく生きているとき、それを見てモヤモヤする人はいる。
でも、そのモヤモヤは、目立っている人が背負うものではない。
嫉妬というのは、ある意味でインスピレーションでもある。
「あの人ばかりずるい」と受け取るのか。
「私も本当はやってみたかったんだ」と気づくのか。
そこは、受け取った側の課題だ。
もちろん、相手を見下したり、わざと人を傷つけるような見せ方をするなら話は別だ。
でも、ただ楽しんでいるだけ。
挑戦しているだけ。自分の人生を動かしているだけ。
それを「ひけらかしている」と決めつけるのは、見る側の痛みが反応しているだけなのかもしれない。
最近の私は、そういう反応を見ても「若いんだな」と思うようになってしまった。
たぶん、エストロゲンのせいだ。
いや、正確には、そう感じなくなってきた私の方が、エストロゲンが減ってきたということかもしれない。なんと。
ちなみに私は、生理が来るたびにいまだに「今月も妊娠してなかったか」と思う。
えっと、何の話だったっけ。
そうそう。嫉妬の話。
人が輝いているのを見て、自分の心がザワつくなら、それは相手を止める合図ではない。
自分の中にまだ燃えているものを見つける合図なのだと思う。
自分を生きている人は会話に温度がある
私はたぶん、自分の人生をフルに生きている人が好きなのだと思う。
挑戦している人。
楽しんでいる人。
失敗して、落ち込んで、それでもまた何かをやってみる人。
自分が何に喜ぶのか、何に腹が立つのかを知ろうとしている人。
そういう人と話していると、会話に温度がある。
予定調和ではないから、話がどこに転ぶか分からない。
正しいことだけを言うわけでもない。
たまに危なっかしいし、矛盾もある。
でも、その人がそこにいる。
これが私にとっては大きい。
「何が好きなの?」
「何をしていると楽しいの?」
「最近、何に夢中になったの?」
「何に腹が立ったの?」
こう聞いたときに、少しでも自分の言葉で返してくれる人が好きだ。
答えが立派である必要はない。
「最近、妙に梅干しにハマっている」
「朝の散歩が好き」
「これをやってみたけど、全然うまくいかなかった」
「本当はもっと目立ちたいのに、怖い」
そういう言葉の方が、よほどその人を感じる。
逆に、ずっと誰かの価値観の中で話されると、私は疲れてしまう。
いい人なのは分かる。
優しいのも分かる。
でも、その人の輪郭が見えない。
ずっと霧の中で会話しているような気持ちになる。
それでも怒りは私の課題だった
夫の友人の言葉に、私が怒りに近い反応をしたことは、少し反省している。
だって彼は、大変な状況の中で、自分なりに祈っただけなのだ。
職を失い、犬が倒れ、車まで壊れた。
そんなとき、人が何にすがるかを外から裁くことはできない。
彼にとって、神に問いかけることは逃げではなく、中心に戻る行為なのかもしれない。
そこは尊重したい。
と、同時に、私の中で起きた違和感もなかったことにはしたくない。
怒りは、いつも相手の間違いを知らせるものではない。
むしろ、自分が何を大事にしているかを教えてくれることがある。
今回のことで、私はかなりはっきり分かった。
私は、自分以外の何かに人生を丸ごと預けているように見える状態が苦手だ。
自分の好き嫌いを持っている人が好き。
自分の欲を知っている人が好き。
目立つなら目立つで、その光を使って生きる人が好き。
嫉妬されても、必要以上に小さくならない人が好き。
そしてたぶん、私自身もそうありたいのだと思う。

自分がある人が好きだと認める
「自分がある人が好き」と言うが、完璧にブレない人ではない。
迷ってもいい。
怖がってもいい。
人の目が気になってもいい。
嫉妬してしまう日があってもいい。
ただ、その中で少しでも「私はどうしたい?」と自分に戻ってくる人が好きなのだと思う。
人生には、説明のつかないことが起きる。
つらい出来事が重なる日もある。
誰かの光を見て、自分がみじめに感じる日もある。
それでも、自分を不在にしないでいたい。
神様がいるとしても、運命があるとしても、誰かの期待があったとしても、最後に自分の足で立つのは自分だ。
私は何が好きで、何を楽しんで、何に怒って、何を選ぶのか。
そこを持っている人と話したい。
そこを持っている自分でいたい。
夫の友人の一言にあんなに反応したのは、少し大人げなかったかもしれない
でも、そのおかげで自分の好きな生き方が少しクリアになった。
私はやっぱり、自分を生きている人が好きだ。
そして私も、できるだけそういう人でありたい。
モノクロから虹色へ







































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