Noを受け入れる1

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最近、スカイプのセッションがたくさん入る。
やっぱりセッションは、とても楽しい。
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そのスカイプのインテグレイティッド・ヒーリング(通称IH)のセッションで
『ノーと言われるのが嫌だ』と言葉を聞いた。
筋肉反射テストでも
イェスといえば、体の筋肉は強くなるし
ノーといえば、体の筋肉は弱い反応を見せる。
だから、元々、私たちはノーという言葉に対して、
身も心も、へなちょこになってしまう生き物なのかもしれない。
ただ、ノーという言葉にどうリアクションをするかは、私たちは選べる。
へなちょこになって、そのままぶっ倒れてうなだれることもできるし
へなちょこになって、そこから肚に力を入れて立ち上がる事も出来る。
ただ、私は、相手のノーに対して、オッケーと受け入れられるかどうかが
世界平和の鍵だと思っている。
大げさだとお思いかもしれないが、極めて真剣に言っている。
先日、私がいいなと思っていることに対して
『それはよくない』という意見をもらった。
「なんでこの良さがわからないんだろう?」と本当に心から純粋に不思議だった。
「なんで?こんなに愛でいっぱいなのに?こんなに素敵なのに?」
とプチパニックにも。
相手に対して、怒涛の
『なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで????????????』
というBボタンを連打したい感じが、腹の底から湧き上がってくるのがわかる。
ただ、それって相手を悪者にする方法で、自分の正しさを唱えることかもしれないと
ふと頭をよぎった。
『なんでこのすばらしさがわからないの?』というのも、
自分の正しさの押し売りだ。相手のノーをイエスに変えようとする努力だ。
だから、『よくない』と言うノーの意見をもらった時、心はへなちょこになったけど、
一息深呼吸を置いて、『オッケー』と連絡をすることを選択した。
そして、私は別のオプションを探し始めた。
ノーという人を説得するよりも、イエスという人を見つけて一緒に進む方がはるかに楽だ。私がいいなと思うことに賛同する人と話が盛り上がって、楽しかった時間を過ごした。
相手のノーを受け入れる。
だからと言って、自分のイエスをなかったことにするわけではない。
ただ、相手に自分のイェスを押し売りすることをやめただけ。
もしも、ここでノーを受け入れなかったら、
権力を使って、相手をねじ伏せて、イエスと言わせようとする戦争と似ているから。
これって、男女の関係にもすごく似ている。
漫然と漂う男性恐怖症って『me, too』によって明るみに出てきた節がある。
あまり社会的な問題について書かないことにしているが、
「me,too」を伝えることの目的って、
”なんて男性たちってひどいのかしら?”ということではない気がする。
どうか、気づいて。
どうか、私たちのノーを受け入れて。
どうか、私たちとハーモニーを作るために目を覚まして。
そう言っているように聞こえる。
っていうかそうじゃないと、いつまでたっても
男性VS女性の構造から抜けることができない。
具体的には、昔、私は「嫌だ」と言ったことがあった。
その「いや」に対して憤慨をした相手にもっと殴られたがあった。
「いや」と言ったことで、ストーカーに拍車がかかった事もあった。
いじめでもそうだ。
嫌だと言ったことに対して、
後から、大人の目の届かない所で、いじめがエスカレートすると言うのはよく聞く話だ。
「やめてほしい」もノーと同じ。
でも、やめてほしいって言った子供が
大人から『そんな口答えして、生意気な!』と殴られていたのを目撃したことがある。
ノーと言ったことに対して、
お前、俺をコケにしたなって言う男性が怒り狂っているのを見て、
恐怖を感じた事もある。
ノーと伝えることが、相手の怒りを買って状況がもっとひどくなる。
男性のプライドを傷つけて、自分が痛い目にあう。
だから、にっこり笑ってその場をなんとか過ごして、
退出すると言うやり方を過ごすしかない感覚を感じてた時もあった。